微かな足音が聞こえた。しかも、それはこちらに向かってきていたのでそちらの方へと目を向けると、坂上君がこちらにゆっくりと歩いてきていた。部活動の内容は狩りだというのに、そんなに悠長では獲物を他のメンバーに奪われるのではないかと心配になるほどであった。獲物である私がすべき心配ではないのだけれども。
坂上君は変わらぬゆったりとした動作で、こちらへと向かってくる。表情を伺ってみたいのだが、顔が伏せられているので見ることが出来なかった。これはこれで、岩下先輩とはまた違った恐怖感がある。しかし、昼間はのほほんとしている坂上君が怖いとは思えない。しかし、その考えはどうやら甘かったようである。


「や、坂上君こんばんは」


坂上君に爽やかに挨拶をしてみると、彼はそこで始めて顔を上げた。といっても、上目遣いでこちらの顔を見ただけである。しかし、その一瞬の間に見えた坂上君の瞳は暗く澱んでいた。思わず息を吸って、一歩引いてしまいそうにある。それほどまでに、底知れぬ暗さを感じ取れた。
そして、同時にある一つの事実も感じ取った。それは、坂上君が私よりも暗いところを好むということだ。私は幽霊らしくはないが比較的明るく楽しいところを好む。私ほどではないにしろ、幽霊だってそれなりの娯楽は好む。しかし、たまに居るのだ。地獄や魔界のものですら逃げ出したくなるほどに、陰鬱でどろどろとした世界を好むものが。坂上君はその手の類のものだろう。
しかし、必ずしもそこを好む人物が強いという訳ではない。だから、私が坂上君より弱いということはありえないのだ。しかし、私も元はやはり人間なのだろう。自分の理解の範疇を遥かに超えたものに恐怖感を感じてしまうのだ。正直に言ってしまえば、私は坂上君に気圧されていた。
だからこそ、瞬間的な彼の動きに反応できなかったのだろう。咄嗟に避けようとしたにも関わらず動きが一瞬遅れて、深々とわき腹にナイフが刺さっていた。どうやらこの仮初めの体の製作者は、とことんリアルを追及したらしい。痛覚はしっかりとあるようで、鈍い痛みが刺された部分から響いてくる。せっかくだから、汗腺も作ればよかったのにと悪態を吐きながらも、痛む左腹をかばいながら坂上君と距離を取った。坂上君は虚ろな目をしながら、追撃を仕掛けてくる。負傷した体では流石に避けづらいが、別段命の心配はしなかった。あくまでも傷を負ったのは、肉体のほうであり精神のほうではない。精神までも打撃を受けたら、それは結構大変な事態だ。もう死んでいるとはいえ、魂すらも傷つけてしまっては日常生活に支障をきたす。
坂上君の恐ろしさを十分に感じた私は、さっさと気絶なりなんなりさせようと考えた。しかし、武器も何も持っていない私は肉弾戦で勝負するしかない。坂上君相手では些かの不安があったが、かといってこのままでは肉体上の勝敗は見えている。流石にこのまま動力源を垂れ流ししつつければ、この体は動かなくなってしまうだろう。だからといって、名案が思いつくわけでもなく、一か八かで怪我を覚悟で突進することにした。
姿勢を低くして、坂上君の鳩尾部分を狙って突っ込む。坂上君はすかさず横に避けると共に、首めがけてナイフを振り下ろした。それを右手で受け止め、低くしていた体を上げる勢いで坂上君の顎に頭突きを食らわせる。中々聞いたようで、坂上君はよろよろと二、三歩後ずさる。この隙を見逃さず、すかさず私は距離を詰めると、坂上君の首に手刀を振り下ろした。当たり所が悪ければ死んでしまうかもしれないが、そんな流暢なことを言っている暇はなかった。
坂上君は今度こそ意識を失ったようで、後方に倒れていく。慌てて支えようと思ったのだが、結構わき腹の傷が深かったらしく思うように体が動かなかった。廊下中に中身が詰まった重いものとウレタンが衝突する鈍い音が響いた。これを聞いて、誰かがやってきたら嫌だなと思いつつも、しかし、私は確かに一つの気配を感じ取っていた。元木さんと闘ったときにも感じていたあの気配だ。そして、それは確実にこちらに近づいていた。ここでやりあえば坂上君に迷惑がかかると思い、少しでも距離を取ろうとその場を離れようとしたのだが、体が思うように動かなかった。流石にそこまで怪我の具合は酷くないだろうと思って傷を見やる。……確かに傷口はそれほど大きくはなかったのだが、そこから絶えず流れ出ている血の量は問題だと思った。万事休すだ。










「馬鹿でも役に立つものねー」


耳障りな甲高い声と、聞き捨てなら無い台詞と共に現れたのは倉田さんだった。
私はといえば、怪我を治すために能力を消費を多大に消費している最中だった。あまり治癒など神経を使う作業は得意ではない。むしろ、豪快にぶっ放すほうが得意で好きだ。何事も単純明快なほうが分かりやすくていい。だから、女性特有の陰湿さが嫌いだったのだ。そして、これは私の直感なのだが、倉田さんは陰湿なタイプだ。絶対に。


「手ごまをけしかけないと、大将は出て来れないの?」

「当然じゃない。将軍は後ろで指揮をとるもんでしょ」

「……で、手柄を横取りする、と」

「あら、だって、坂上はもう気絶しちゃったからいいじゃない。それに、取られる方が悪いのよ」

「基本的に貴女の言うことに賛同はするけど、貴女のその声は不快だなー。耳が悪くなっちゃいそう」


しれっとそう告げると、途端に倉田さんは眉間に皺を寄せた。これぐらいの挑発に乗るようではまだまだ若いな、なんて思いつつも、体を回復させるための時間稼ぎに徹することにする。だったら、挑発なんてしない方がいいのだろうけれど、イエスマンになんて絶対になりたくはなかった。


「負け惜しみ?」

「まさか。私は負けてあげるつもりなんてないよ?」


そう言うと、倉田さんは途端に笑い出した。それはそれは邪悪な笑みだったが、動的すぎて幽霊にとっては恐怖感なんて微塵も感じなかった。これだったら、岩下先輩の薄ら笑いのほうがまだまだ怖い。


「そんな怪我で、そんなことを言える?」

「え、でも、倉田さんって私と元木さんの闘い見てたでしょ? だったら、そんな悠長なこと言ってられないと思うなー」


私はあんなに大量の霊魂を一瞬にして移動させることが出来る人間なんて見たことが無い。だから、私よりも年下の倉田さんだって見たことがないだろう。そんな魔術的なものをしてのけた私が、これぐらいの怪我で動けなくなるなんてことはあるまい。事実、傷も大分塞がってきた。かといって、血液が戻ってくるわけではないので多少くらくらするものの、倉田さん一人を倒すなんて簡単だろう。


「でも、死にかけに何が出来るの?」

「うーん、そうだなー……」


さりげなく坂上君のナイフを手繰り寄せる。そして、瞬間移動的なものを使って、倉田さんのすぐ後ろに一瞬にして回りこんだ。わざわざ歩いて移動するのが面倒だったのだ。そして、倉田さんの左腕を彼女の背中に縫い付けるように押さえつけて、右手で持ったナイフを後ろから頚動脈付近に当てた。


「形勢逆転。王手、だね!」


いい加減、倉田さんに付き合うのが面倒くさくなったので、ナイフの柄で首を横から強打する。何か言う余地すらなく、彼女は前に倒れていった。完全に地に伏せるのを眺めている気なんてさらさらなく、私はさっさと残る一人のメンバーを探しに行くことにした。










「まさか本当にいるとは思いませんでした」

「じゃあ、何で来たんですか」

「いや、荒井先輩っていったら屋上かなー、なんて」


本当にシャレのつもりで屋上に荒井先輩を探しに来てみたのだが、意外にもそこに荒井先輩が立っていた。私に背を向けて立っている荒井先輩に声をかけると、相変わらず淡々とした言葉を返された。荒井先輩の手に鎖鎌なんて物騒な物がなければ、深夜の密会みたいで何だか良かったのに、なんてそんなことを思いながら彼に近づく。荒井先輩はこちらを見ることなんてなかったが、かといって武器を構えようともしなかった。


「部活動サボってていいんですか?」


言外に闘おうというニュアンスを含めながらそう問いかけてみると、荒井先輩は今だ深夜の校庭を眺めながら口を開いた。


「日野先輩や岩下先輩を倒した相手に僕が敵う訳がないじゃないですか」

「向上心がないですねー」

「負けると分かっている相手に挑むほど、僕は愚かではないんですよ」


何とかして闘いたい私なのだったが、どうやら荒井先輩にその気は無いらしく、そういう人に襲い掛かるというのも何だかいけないような気がする。かといって、このまま終わらせる訳にもいかないのだ。いざとなったら、でっち上げればいいのだが、つまらない嘘を考える時間が勿体無い。


「私としては、闘ってほしいんですけどねー」

「……どうしてですか?」

「理由は後で話しますよ。という訳で、闘いましょう」

「どうしてそうなるのか、甚だ疑問ですね」


乗ってくれるかは分からなかったが、ファイティングポーズをとってみる。すると、荒井先輩は気だるげな感じながらも鎖鎌を構えてくれた。


「もっと殺る気だしてくださいよ!」

「嫌ですよ」


一刀両断されたことにしょぼくれつつも、私は地面を蹴った。そして、世界は暗転した。










「すいませんのぅ」


一瞬にして暗闇に飲み込まれた世界に立ち尽くしていると、そんな声と共に一人の老婆が姿を現した。その姿や気配からすぐに分かった。彼女は幽霊であり、この学園では高木ババァと呼ばれている人物だろう。新堂先輩から聞いた話とそっくりないでたちだ。そして、新堂先輩から聞いた話で重要な点を思い出した。それは、その話を聞いてから一週間以内に10人以上にそれを話さなければ、吉田のように殺されてしまうのだ。考えてみれば、話を聞いてから今日が七日後だった。だから、こうして殺されてしまった訳である。


「いえいえ、忘れていた私も悪いですから」

「ですが、調査だとかで……」

「調査は終わりましたのでご安心ください! 後その他もろもろの雑多なことは、いつでもいいので。という訳で、私は早速本社に戻ろうかと思います。高木さんも頑張ってくださいね!」


正直苛々としていたが、それを高木さんにぶつけたところで意味は無い。私が新堂先輩の話を聞いた時点で契約は完了していたのだから、それを覆すことなんて並大抵のものでは出来ないだろう。そういう風に考えられる自分の何と大人なことか!
私は軽く高木さんに頭を下げると、霊界に戻るべく歩き出した。上司に怒られるかも知れないが、過ぎない嵐は無いのだから耐えていればいいだろう。