自分でも、要領が悪いとは思っていた。自棄酒を煽りながら、一人ごちる。見上げた先の夜空には、ぽっかりと丸い穴が開いている。満月の夜は無性に気が立って仕方ない。夜空の下もにわかに騒がしくなっていた。大阪城に集まるそれらは想定していたよりも多い。多分、野次馬根性で集まる奴らもいるのだろう。鴉の口は軽く、彼奴らの翼は千里を一瞬で駆け抜ける。脳裏に浮かぶニヤニヤ笑いを腹立たしく思いながら、酒をぐいと飲んだ。喉を潤すその感触が心地いい。面倒なことを素面でやることもない。
「飲まなきゃやってられん」
「平素でも飲まない日はないではないですか」
部屋の襖を開け放ち立っている幸村の手には、刀が握られている。刀は煤けて傷だらけだ。鞘を投げ捨て、幸村は大またで近づいてくる。部屋の中央に座る私と、その後ろに横たわる豊臣秀吉の元へと――。
「まぁ、とりあえず座れ。飲むぞ」
「その前に、しなければならないことがあるので」
幸村は口元の笑みを揺らがせはしなかった。こんなに据わった目を向けられるのは初めてのような気がする。それだけに、こいつの覚悟がひしひしと伝わってきた。幸村を茶化すのは、この場にそぐわない行動のようだ。
「やれやれ、聞く耳持たずか」
「結局、会いに来てくれなかった貴女には言われたくないです」
「こうして、お前の方から会いに来たんだからいいじゃないか」
「やはり、知ってらしたのですか。では、それなりの対策もしてらっしゃるのでしょうね」
「いやいや、お前らの悪知恵には敵わん。馬鹿は馬鹿らしく、力で圧させてもらう」
「その割には、何も仕掛けてこないんですね」
そう言って、幸村は私の前で立ち止まった。そうして、胡坐をかく私の前に刀を突き刺す。床に刺さったそれは、蝋燭の光を鈍く反射した。
「どうぞ」
「罠としか思えないな」
「そんな。どうして私が殿を騙さなければいけないのですか」
「……良い笑顔だな」
褒めたつもりはないが、幸村は頬を両手で覆ってふにゃりと緩みきった笑い顔になった。「そうですか?」そう言うこいつの声色は、随分と機嫌がいい。心の底から喜んでいる風の反応に、戸惑いを覚える。普通に話していては、こちらの調子が狂う。
「くねくねするな、気持ち悪い」
「すみません。嬉しくて、つい」
いったん、幸村は放っておくことにした。
せっかく目の前にあるのだからと、刀を引き抜いて目の前に掲げる。刃に触れると冷たいような熱いような奇妙な感覚が伝わってきた。雰囲気だけでも十分に分かるが、触ってみて確信した。これは紛れもなく、あの妖刀だ。
「実際に在るものである以上、光の速さは超えられないからなぁ……力も速さも人並みの私には不利な勝負だな、ヲキ」
「その通りっスね。自分の身体能力に勝てる種は中々いないっスよー?」
声だけが聞こえるだけで、姿は見えない。が、大方屋根の上で大の字に寝転がっているのだろう。幸村はこのやり取りが気に食わなかったのか少しだけ顔を顰めた。
「それにしても、お前がそっち側につくとはな。幸村の泣き顔をあざ笑うかと思っていたが」
「たかだか人間の死なんざ美味しかないんですよ。それよりも、自分はあんたの悔しがって地面を叩く姿が見たいっスねぇ。そ、れ、に! 人間が代わりに儀式を行ったなんて知れたら、お宅の面目丸つぶれじゃないっスか! 独占掲載で、自分の新聞の売れ行きも鰻登りっス!」
「せいぜい、お前の存在ごともみ消されないようにするんだな」
天音ならやりかねない。真剣に警告する義理もないので、話はそこで区切ることにした。視線を天井から幸村へと戻す。どうやら先ほどまでの気分はすっかり落ち込んだらしい。感情の揺れ幅が大きすぎて、見ているこちらが心配になる。
「情緒不安定だな。今度、薬でも持ってきてやろうか?」
「それは、是非お願いしたいですね。そうすれば、また会えるのでしょう?」
「人間なら、また此岸に戻ってくるさ。その時、会いにいってやらんでもない」
「でも、私は殿のことを忘れてしまうのでしょう?」
寂しげに笑う幸村を、無性に引き寄せたい衝動に駆られた。しかし、それは隠しておく。別れは近い。どちらの為にもならない。努めて、素っ気無い声色を意識する。
「お前が私の代わりにこの刀に封印されたとしても、同じ――いや、もっと悪いな。なにせ、お前は永久に出てこられないし」
「それでも! 私は、殿ならば私のことを再び解放してくれると信じておりまする」
まっすぐにこちらを見つめる双眸には、何の迷いも疑いもなかった。ここまで全幅の信頼を置かれると座りが悪くなる。幸村は私の前に座り込んで、ぐいと身を寄せてきた。斬れては危ないと刀を横に置く。その手を幸村はとって、痛いほどに両手で握り締める。
「貴女を無くすぐらいなら、いっそ私が消えます」
「本当に、消滅することになってもか? 刀に封印されたら、モノと同一化して“幸村”はいなくなるぞ?」
「そこは嘘でも出来ると言ってください」
「私が嘘を吐くのは、そうしても心が痛まない相手にだけだ」
幸村が吐いた吐息が手に当たる。幸村は寂しそうに笑った。無理をしているのが見え透いていた。
「殿が消えるぐらいなら、私が消えます。さっきもそう言ったでしょう?」
「別に私は消える訳じゃないんだがな。――眠りにつく、というのがしっくりくる表現だな」
「でも、私が生きている間にはもう二度と会えぬのですから、それは私にとって死んでいるのと同義です」
幸村の手は震えていた。それでも、視線だけは愚直な程にただこちらに向けられている。引き結ばれた唇から、幸村の思いの強さが感じられる。
「確かに一理ある。――だが、お前がそう思うように、私もそう思うとどうして分かってくれない?」
「こんな時ばっかり、甘い言葉をかけてくださるんですから――でも、もうそんな言葉はいらないですよ。見返りを求めるから辛いんです。私は、もう決めたのです」
厄介だ。心の内でため息を吐く。ここまで覚悟されているとなると、説得に応じてくれることはないだろう。かといって、口先で騙すことも気が引ける。ならば、力ずくでいくしかない。こちら側の流儀に則ろう。こちらも、そう覚悟を決めた。
幸村がそれを感じ取ったのかは分からない。だが、彼の手は傍らの刀へと素早く伸びていた。すぐさま幸村の体を蹴飛ばす。しかし、幸村の方が一瞬速かった。吹き飛ばされたあやつの手には、刀が握られている。それを視認した直後に、風が頬を叩く。少し遅れて木屑が頭上からばらばらと降り注いできた。
「随分と派手にやってくれるな」
「ドンパチなら混ぜてもらわなきゃあーね」
「邪魔者は引っ込んでな」
秀吉を小脇に抱えたヲキ目掛けて、屋根の残骸を飛ばす。ヲキはケタケタ笑いながら、手にした団扇を振るう。天狗に物理攻撃で挑むのは、意味がないのは知っていた。だが、目くらましぐらいにはなる。
「隙ありっ!」
声高らかにそいつはそう言って、ヲキの腹にくないを突き刺した。私特製の対天狗用の仕掛けを施しておいたものだ。ヲキの笑みが引っ込んだ。そうして、脇に抱えた“秀吉”を見下ろす。今のそいつは、ヲキ以上に楽しげな笑みを浮かべている。その頬に散った鴉の血が、月光に照らされる。
「邪魔者は退散しにゃいとー」
崩れるヲキから離れて、くのいちは笑った。そうしてすぐに表情を引き締め、こちらに目を向ける。
「言ったとおりにしましたよ。後は任せます」
「ご苦労様。まぁ、信繁にでも会いにいってやれ」
疑念を拭い去れないような目をしていたが、くのいちは何も言わずに、その場から去った。床に横たわるヲキは、歯を食いしばって立ち上がろうとしている。短剣の柄が脇腹から生えている。それを取ろうとした手が一瞬にして炭化した。
「何スか、これ」
「対お前用の仕掛け。大人しくしてろ。死にはしない」
「あーもー! やめやめ! こんなの割に合わないっス! 退散っと!」
ヲキは顔を歪めながらよろよろと立ち上がる。その背から黒い翼が生えて、不安定ながらも飛び立った。そうして逃げ出すヲキの姿は視認出来る程度には遅かった。第一の関門は去った。
思っていたよりもずっと簡単に事が済んだと安堵しながら振り返る。そこには、憮然とした顔つきで、蹴られた箇所を押さえながらこちらを見ている幸村がいた。まるで拗ねた子供のような顔だ。
「秀吉はどこに行ったのです?」
「最期ぐらい家族水入らずでゆっくりと過ごしたいだろうという配慮だ」
「そういう気遣いを私にはしてくださらないのですね」
「そんなの今更だろう」
幸村は大きく息を吐いて、肩を落とした。そうして、手に持った刀を見やった。
「まぁ、これがこっちにあるだけ良しとしますよ」
「ヲキがいない以上、お前は無力だが?」
「えぇ。これが貴女の手に渡るのも時間の問題でしょう。ですが、私にだって出来ることがあるのですよ」
そう言って、幸村は薄らと微笑んだ。嫌な予感がする。ここはさっさと刀を手に入れるべきだ。そう思ったのだが、不思議と体の動きが鈍い。精神と体が一致しない。そのことに戸惑いと焦りを覚える。
「貴女があの鴉の対策を出来たように、天音殿が貴女の対策をしているのが道理でしょう?」
幸村はそう言って複雑そうな笑いを浮かべる。動かない体を抱える私の背には冷たい汗が流れる。しかし、一方で心の一方では安堵もしていた。幸村はそれを見透かしたように真顔になる。
「そうして、それに対しても手を打っているのですよね。いくら貴女が力押しばかりだからといって、全く頭を使わない訳ないんですから」
「仮にそうしていたとして、お前がそれを阻止できるのか?」
「流石にもうすんだことはどうにも出来ないですよ」
どこまで見抜かれているのかと無意識のうちにため息を吐いていた。自分なりに上手くやったつもりだったのだが、そうではないらしい。
「やはり私には策謀とかそういったものは似合わないな」
「ええ。私のことだけを考えてくださればいいと思いますよ」
「お前が中々に面白いやつだというのは認めるが、お前だけでは私の好奇心を満たせないよ」
幸村はただ寂しそうに笑うだけだった。そうして、一歩ずつゆっくりとこちらに近づいてくる。むき出しの刀はそのままだけれども、不気味な感じは受けない。むしろ、今の幸村は弱々しく、今にも崩れ去りそうだ。
「もう、殿は儀式を終わらせていることは知っています」
「だったら、もう諦めてくれ」
口ではそう言ってみても、そうしてくれないことは理解していた。それでも、説得を試みるしかない。一応、予防線は張ってある。それが正しく作動しない可能性があるからこそ、幸村には踏みとどまってほしかった。
「この刀の中に、殿はいらっしゃるんですね――」
うっとりした顔で幸村は刀の刃を撫でる。嫌な予感しかしない。手に汗が滲む。
どうやら本当にこいつは事情を知っているらしい。だからこそ、今後の展開も容易に予想できた。
儀式は済んだ。秀吉はとっくに根の国にいる。そうして、予定通り私も刀に封じ込められた。妖刀に吸収されたモノを封印するために、だ。ただ、まだ完全には封印されておらず、刀の周囲にいるものの感覚を狂わせるぐらいは出来る。いっそのこと、幸村に術をかけてしまおうと思ったが、あやつに先手を取られた。私自身の大部分が刀に吸い込まれ始めていた。それでも、何とか平静を取り繕う。
「その通りだ。お前にも天音にも封印は解けない。その内、本当に私も消える。お前は詰んでるよ」
「まだ終わっていませんよ。貴女が出てこれないのなら、私がそちらに行けばいいのですよ」
刀を撫でる指先に赤い筋が走る。薄皮を裂いて赤い鮮血が滴り落ちる。それすらも嬉しそうに、幸村は笑った。
「私がそれを許すと思うか?」
「では、死にます」
何の戸惑いもなく、幸村はそう言ってのけた。その表情に曇りはない。つくづく育て方を間違えたと後悔する。私の引きつった顔も気にせずに、幸村は刃を己の首筋に当てた。
「また会えることを願っております」
「別れの言葉にしては素っ気無いな」
そう言って笑い捨てると、幸村は途端に無表情になってこちらを見た。不気味なほどに何も感じさせない能面のような顔だった。背筋に冷たいものが流れる。
「――さようなら」
幸村はそう言って、刀を引き寄せた。その鋭い切っ先はあっさり幸村の首に吸い込まれる。直後、幸村の体はゆっくりと地面に倒れていった。それを受け止めることも、今の私には出来ない。力のほとんどを刀に吸収されたらしい。こちらの視界も揺れてぼやける。もはや抵抗する力も残っておらず、大人しく暗闇に身を任せることにした。せめて最後にと、幸村へと手を伸ばす。安らかな寝顔に指先が触れる前に、私の手は消え去ってしまった。思い通りにならなかった事態に舌打ちをした。