床がゆらゆらと揺れている。予想できないその揺れが暫くは続くのかと思うと、憂鬱になった。腹の底がむかむかとして、気持ちが悪い。欄干に両手をついて、深くため息を吐いた。


「大丈夫ですか?」

「正直、あまり気分はよくないな。そなたは何ともないのか?」

「まぁ、この程度なら訓練してますから」


 そう言って、彼女は歯を見せて笑った。しかし、それも束の間で彼女は遠い目をして空を見上げる。彼女が首に巻いた襟巻きが風にのってはためく。私もそれを追って上を向いた。
 そこには、雲一つない空がある。抜けるような青色がどこまでも広がっていた。少し目線を下げれば、水面が太陽の光を反射して輝いていた。


「海ってあんまり見たことないんですよね。それが、こうして船に乗ってるだなんて、人生なんて分からないもんですね」

「全くだ。最後の最後でこんなことになるとは思わなかったな」


 船が進んできた道を振り返る。その向こうにあるであろう喧騒は、当然ながらこちらには届いてこなかった。


「幸村様は――」


 彼女はそこで口を閉ざした。顔を見ると、気まずそうに視線を逸らした。


「あの者は、上手くやるだろう。なにせ、私も出し抜いたのだ」

「そうですね。気がついたら、私たち、船の上でしたしね……」


 詳しい事情はおろか挨拶すら、本人の口からは聞けなかった。抵抗する暇もなく昏倒させられて、目が覚めたら海の上だ。中程度の大きさの船は、黄土色の汚らしい布を纏った人のようなものが舵を取っていた。頭巾の奥には暗闇が広がっていて、話しかけても何も答えない。結局はそういうものなのだと思うことにした。


「それにしても、この船はどこに向かってるんだろうな」

「手紙には何も書いてなかったんですか?」


 懐からあの手紙を取り出し、再び広げる。くのいちが脇から覗き込んでくる。蚯蚓ののたくった様な下手糞な字が、紙面にのたくっている。


「こ、これは……」


 くのいちはその後の言葉を続けなかった。同情的な目線を手紙に向けた後、目を細めて手紙を睨み付ける。


「――なんて書いてあるんですか?」


 予想通りのその言葉に、思わず笑い声が漏れた。風になびく紙を両手でしっかりと押さえつけて、読みづらい字を読む。そこには、殿に会いに行くこと、今後の私達の処遇などが簡素に書かれていた。


「どうやら、この船は海の向こうの地へと向かっているようだな。半日も経たずに着くらしい。そこでのことは、天音殿に頼んでいるから何とかなるだろう、とのことだ」

「げ……あたし、あの人あんまり好きじゃないんですよね。信用ならないというか」

「彼女は自分の利益になることなら、私事を挟まずこなす人だ。大方、幸村と何か取引でもしたのだろう。それが、どういう結果になるかは分からないがな」


 そこで言葉を切って、息をつく。私は大阪の地に伏せるつもりでいたのだ。それが、思いもよらずこのような結果になった。あいつの身勝手さにはほとほと呆れ、これからのことを考えて少なからず不安になった。
 そして、何よりも家康を討ち取れなかったことを悔しく思った。お館様の仇をこの手で取れないことが歯がゆかった。その機会を奪った幸村が憎らしく、歯を噛み締めた。


「信繁様は、やっぱり――」

「いや、今更過ぎたことは言うまい。どうせ幸村のことだ。恨み言を言えば言うだけ、嘲笑うだけだろう」


 その心境はさておき、そうすることが私達兄弟の慣わしなのだ。互いが互いに罪悪感を感じないように、お互いを貶し合う。私は幸村を追い出したことを、幸村は自分だけが自由になったことを、後ろめたく思っていた。結局、和解すら出来なかった。胸の奥で何かがくすぶる。


「……相変わらずですね、お二人は」

「今更だな」


 くのいちがくすくす笑うので、こちらもつられて笑ってしまう。空を仰ぎ見れば、どこまでも透き通った空が広がっている。遠くで、一つの時代が終わる音が聞こえるような気がした。