あれから数日経った。秀吉様の様態は芳しくない。いつ死んでも可笑しくない状況だ。家中の者の顔色も暗くなっていた。天守閣の屋根に座って、空を仰ぐ。この下にある重苦しい世界なんて気にせずに、空には月が浮かんでいる。
まだ、完全な円形にはなっていない。でも、その時まではそう遠くない。深く息を吸い込むと、冷たい夜気が忍び込んでくる。それが気持ちを落ち着けた。
その時、突風が横を通り過ぎた。高い位置で結った髪が揺れる。横を見ても当然何もない。しかし、一呼吸ほどおいてそれは現れた。闇夜から浮かび上がる人影は、久方ぶりに見るものであった。
「……、様」
「ん」
突如として現れた様は言葉少なにそれだけ言う。彼女は着物の袖を翻しながら、あたしの隣に座り、足を投げ出した。
「秀吉の容態は随分悪いそうだな」
そう言う様もよっぽどくたびれた顔をしていた。額に浮かぶ汗を拭って、彼女は大きくため息を吐く。
「さっさとくたばって欲しいところだが、そうもいかないのが面倒なところだ。それに、また厄介ごとが増えたし――そろそろ根をあげたいところだ」
独り言のように、様は喋り続ける。あたしは言葉も挟めずに、ただ彼女の言葉を聴き続けた。
「お前達も大変だろう。秀吉が天下人になれたのはモノのお陰でもある。異常なまでの求心力が無くなったら――後は、想像に任せるが」
「そ、そんな……! 平和になるんじゃなかったんですか!」
様の言葉は、以前とは矛盾しているように思えて、無意識のうちに声を荒げていた。様に詰め寄ってみても、以前として彼女は前を向き、こちらを見ようとはしなかった。
「悪いが役目を終えたら、そっち側に干渉する義務も義理もないからな」
口をぽかんと開けるしかなかった。よく分からない人だとは思っていたが、ここまで素っ気無い人だとは考えていなかった。ただ、漠然と、何とかしてくれそうだと思っていたのだ。それを見事裏切られた。――だが、それも当然かもしれない。彼女も“お仕事”でやっているのだから。
「まぁ、お前達には世話になったからな。自ら火事場に飛び込まない限りは、最低限の暮らしは送れるようにはしておくさ。――身勝手ではあるが、幸村のこと、頼んだ」
様の顔色は読めない。ただじっと前を見つめるその横顔が、張り詰めた水のように凛としている。戦前の信繁様の目に似ていた。
「あたしじゃなくて、信繁様に言ってください。信繁様だって、心配してるんです」
「それはそうしたいが、生憎行方が知れない」
妙なことを言う。様の言う言葉の意味が分からなくて、首を傾げた。信繁様は、今、あたし達が座る屋根の下にいるではないか。思ったことをそのまま口に出すと、彼女は大きなため息を吐いた。
「私は信繁と話したいんであって、あいつとは違うよ。まぁ、あとで整合性をとるだろうから、問題はないだろうが、なんとなく嫌だ」
「え、いや、信繁様は――え?」
それ以上は言葉を続けられなかった。まるで、信繁様が別人と摩り替わったのだと言いたげだ。様はあたしの慌て様を見て、また息を吐く。
「多分、問題はないだろう。信繁だって死んではいないからな。後始末は天音にさせるさ」
天音様に任せるのは、心もとなかった。あの人ならば、素知らぬ顔をしても可笑しくはない。あたしの心配を悟ったのか、様はくすりと笑う。
「あいつは表立って余計な手出しは出来ないよ。いざとなったら、神頼みでもしてくれ。それが効果的だ」
「はぁ……」
煮えきらないあたしの返事に気を悪くしたのか、様は顔を俯かせて小さく舌打ちをした。彼女の機嫌を損なうことが恐いが、でも謝るような気にもなれない。様の身勝手な行動には少なからず苛つき始めていた。
「ところで、様はどうしてこんなところにいらっしゃったんです?」
「平たく言えば、監視、だな。今の私は孤立無援、四面楚歌、孤城落日――もうとっくに夜になってるがな。だが、かといって大人しく相手の思い通りになるのも気に障る。――で、だ。まぁ、私が態々こうして姿を現したんだ。どういうことかは察してくれるだろう?」
「ただの暇つぶし、ではないんでしょーね」
「お前と信繁にとっては悪い話ではない。……幸村については知らんが」
様は複雑そうな顔をして、また舌打ちをした。どうやら、あたしに対して怒っていたようではないらしい。煩わしそうに目にかかる髪を掻きあげる彼女は、肩を僅かに落とした。
「特別変わったことをして欲しい訳じゃないんだ。ただ、いつも以上に――信繁のことを注意深く観察しておいてくれ」
「それって、あたしの知ってる信繁様、ってことでいいんですか?」
「そうだ。あれが可笑しなことをしたら、後で戻ってきた信繁が迷惑を被ることになる」
「具体的に、何をしそうです?」
様は意図的になのか、こちらを見ようとはしなかった。ただ前を見据えて、口を開く。
「秀吉を殺す」
そう言ったきり、彼女は口を噤んだ。