雨の匂いがした。遠く東の空の山裾には重苦しい雲が垂れ込めている。じきに振り出すだろう。窓から覗く風景を眺めながら、一人ため息を吐く。茶を啜っていた殿を振り返り尋ねた。
「傘は持っていかれますか?」
「いや、構わん。暫く帰れないかもしれないが、まぁ心配するな」
「――“その時”までに、せめてもう一度は会いに来て下さいね」
湯呑みを置く彼女の片眉が吊り上っていた。横目でこちらを見て、引きつった笑いを投げかけてきた。
「善処するよ。じゃあ、行ってくる」
そう言って、彼女は立ち上がる。見送りのために私も立ちあがろうとするが、それは手で制された。中腰で止まってしまう。
「積もる話もあるようだし、わざわざ送ってくれなくていい」
随分と素っ気無い言い方だ。しかし、その理由に心当たりあるので大人しくその言葉に従うことにした。
「どうか、お気をつけて」
殿は何も返さず、部屋から歩き去った。襖が閉まり、足音が遠ざかっていったのを確認してから、舌打ちをする。
「戯れも程々にして下さい」
「すみませんわ。私としたことがに悟られるなんて……」
影からするりと人影が滑り出た。それを睨み付けても、彼女は口元だけで笑うだけだった。全く何を考えているのか分からない。目的のためとはいえ、やはり彼女と手を組むのは嫌だった。しかし、それしか道がないのも確かである。
「お茶、飲みます?」
「気が利きますわね。では、せっかくですし頂きますわ」
そう言いながら座る天音殿に、とびっきり熱い緑茶をだす。しかし、彼女は臆することなくそれを口にした。たいして火傷した風でもない。流石にこの程度で動揺することはないだろうが、腹立たしく思えた。
「それで、秀吉の容態はどうなんですか」
天音殿は私の問いにすぐには答えず、わざとらしくお茶に息を吹きかけている。わざとらしいその仕草に苛立ちを覚える。天音殿は散々私を焦らしてから、茶を一口飲んで湯飲みを置いた。
「もうじき、お迎えが来そうですわ」
「――ようやくと言うべきか、もうと言うべきか」
「貴方にとっては、早くもという感じかしら。こちらにとっては、別にそれほど待ったという気はしませんけれども」
天音殿の澄ました顔がいつも以上に苛立つ。彼女が気に食わないのはいつものことだと自分を宥めて、話を進めることにする。天音殿と同じ空間にいる時間は少ないほうがいい。
「殿は何をなさってるんですか?」
「あらあら、そんなことも知らないの?」
天音殿は口元を手を隠してくすくすと笑う。所作の一つ一つが優雅であり、それが癇に障る。そして、少なからず彼女の言葉には傷ついていた。殿の口から彼女がしていることは聞いたことはなかった。尋ねてみても、はぐらかされるだけだ。私の企み事に気づく前も、彼女は重要なことは私に何も教えてくれない。
「本当に弱いですわね……」
ぼそっと聞こえるか聞こえないかで呟く天音殿を、思わず睨みつける。彼女の思惑通りの反応だったのだろう。天音殿は上機嫌に私を嘲笑う。
「は、今は主にモノの調整などをしてますわ。白昼堂々人前で死なれたら困りますもの。それに、儀式を行いやすい日というのもありますわ」
「それで、殿が実行に移すであろう日は?」
「次の満月、つまり、七日後ですわ」
思っていたよりも、その時は早かった。ある程度覚悟していたとはいえ、実際に具体的な数字を出されると弱ってしまう。腿の上の両手を握り締めていたらしく、手は白く血の気が失せていた。天音殿は構わず話を続ける。
「残された時間は少ない。ですから、手段は選べませんわ。貴方のお兄様を使わせていただきます」
「信繁を?」
ここであやつの名前が出るとは思わなかった。思わず天音殿の顔を見つめる。彼女は依然としていつもの表情を崩さない。真意が、分からない。
「幸い信繁君は秀吉に近いですし、貴方と顔もそっくりです。入れ替わったところで、誰が気づくと思います?」
「外見は同じでも、中身は違いますが」
「そこを何とかするのが、私ですわ。信繁君の記憶を、貴方の脳に入力することぐらい訳ないですわ」
「――信繁は、どうなるのです?」
天音殿は目を丸くしてこちらを見た。意外だとでも言いたげだった。彼女は一つ咳払いをして、口を開く。
「信繁君が二人、という事態は避けたいですわ。どうせ、人間が一人行方をくらましたところで、天下人の死の後では注目も浴びないでしょうし」
脳裏に、絶望に飲み込まれるあの忍の姿が浮かんできた。支えとしてきた者を失う恐怖は理解出来る。それを避けたいがために、天音殿に頭を下げたのだ。同じ悲しみをあの者に負わせることには、良心が痛んだ。
「――貴方が上手く立ち回ってくれたら、貴方が消えるときに信繁君とまた入れ替えることが出来ますわ」
「では、その方向でいきましょう」
「貴方は以外には興味がないと思ってましたわ」
「……信繁のことはどうでもいいですが、くのいちが不憫だっただけですよ」
これ以上は何も答えるつもりはない。話を区切るために、茶を一口飲んだ。天音殿は獣に似た目つきでこちらを値踏みしているようだった。唇を舐める舌先が血のように真っ赤だった。
「それで、他にこの案に異議はありますの?」
「いえ――」
天音殿は満足そうに一つ頷いた。それでも、彼女の眼差しにある冷たいものは完全には消えていなかった。
「入れ替わった後のことは気にしなくてもいいですわ。普段の意識は信繁君のままで必要なときのみ貴方に変わるだけですから」
「恐ろしい能力ですね」
「動物は所詮脳に頼った生物ですから、この程度造作も無いことですわ」
「それで、私は何をすればいいのです?」
「の持つ刀を奪って、それで秀吉を殺しなさい」
その刀は、モノの封印に使われていたものだろう。彼女に長年連れ添ってきたが、その実物を見たのは数回しかない。しかし、その印象は強烈であった。刀がそこに存在するだけで、周囲の温度はがくりと下がる。空気も重く、まとわりついてくる。気分は落ちていき、昼間でも太陽が無くなったような気持ちになる。その効果を理解しているだけに、殿は刀を持ち出すことは滅多になかったし、話にあがることもなかった。だから、刀の在り処を私は知らない。そのことを告げると、天音殿は馬鹿にしたような目つきで笑った。
「刀の管理は、私の配下のものが行ってますわ。とはいえ、今はあの子も警戒しているようですし――とりあえず、時期は必ずやってきますわ。例え私でもってもあの刀を持って、気配を断つのは難しい。それに、あの子烏も手伝ってくれるようですから、何とかなりますわ」
「ヲキ、とかいう者のことですか?」
「ええ。烏は烏なりに役に立ちますわ」
随分と曖昧な作戦だ。だが、天音殿は他に説明をする気がないらしく、茶を飲み干した湯飲みをわざとらしく音を立てて置き、立ち上がった。全てを見通しているような笑顔が憎らしい。
「では、信繁君は後でここに呼び出しておきますわ。その時にでも、事を為しましょう」
私が言葉を返す前に、天音殿の姿は掻き消えてしまっていた。
湯呑みに残った濁った茶の水面を見ながら、唾を飲み込む。もう、後戻りは出来ない。元よりそのつもりだったが、信繁を巻き込むことに少しだけ胸の痛みを感じた。だが、全ては殿のためだ。そう思い直す。私にとって彼女は何にも代えがたく、何を犠牲にしても手に入れたいものなのだ。もう、後ろを見るつもりは無い。水面に映る私の顔は、醜く歪んでいた。