「うーん、美味い! 葡萄酒なんて久方ぶりに飲んだ!」


 今日の殿の機嫌は随分良い。その理由は、今現在飲んでいる紫色の良い芳香のする“わいん”と呼ばれる酒のおかげであろう。


「流石は国際貿易拠点! 流石は東洋のベニスだ!」


 隣に座る彼女は、にこにこと楽しそうに笑って酒を煽る。一体どこから手に入れてきたのか、待ち合わせの宿に現れた彼女の手には多種多様の珍味が握られていた。


「この、かすてらというのも中々美味ですね」

「そうだろうそうだろう! いやぁ、今回は運が良かった!」


 本当に今日の殿はご機嫌だ。
 秀吉が豊臣政権を樹立したことにより、真田家はそれに帰属。信繁が人質として出されたことに合わせて、殿も度々堺に訪れるようになった。信繁と同じ顔の私が着いて行くことに当初は反対していた殿であったが、最終的には私の説得に応じてくれた。彼女曰く、脅しであるそうだが。だから、最近の殿の眉間には皺がたくさん刻まれていた。が、酒の力は偉大である。


「ところで、お前はいつも何をしてるんだ? 私が出ている間暇だろう」

「そう思うなら、一緒にいてくれると助かるのですが――大抵、宿に引きこもってますよ。暇なことには暇ですけど、まぁ何とかなっていますよ」

「誰か訪ねてきたりしないのか?」


 かすてらをつまむ手が止まりそうになった。殿の表情は先ほどと変わらない。だから、私も動揺を表に出さないように気をつけた。


「くのいちなんかはよく来てくれますよ。後は、時々信繁と天音殿などが」

「天音か――お前らそんなに仲良かったか?」

「いいえ、会うたび嫌味を言われるだけですよ」

「――信じておくよ」


 何を言っても白々しく感じらるように思えて、私は口を閉ざすしかなかった。殿は横目でこちらを見て、くつくつと喉を震わす。


「変なところで、愚直だな」

「貴女が相手だからですよ」

「で、天音とはどんな密談を交わしてるんだ?」

「――それは内緒です」


 今更隠し事自体を秘密にするのも意味はないだろう。だからといって、その内容まで教える訳にはいかない。幸いなことに殿の機嫌はそれほど損ねなかったらしい。殿はわいんの入った瓶を持って、すんすんと鼻を動かしていた。妙に獣臭いその仕草に思わず笑いが零れたが、続く彼女の言葉に顔が硬直した。


「匂いを隠すならもっと上手にやるんだなと、ヲキに伝えておけ」


 あの烏め。毒づきそうになる口を諌めて、笑顔を取り繕う。


「分かります?」

「これでも、あいつの何倍も生きてるからな。出し抜こうたってそうは上手くいかないさ。――それにしても、なんとも胡散臭い面子だな。嫌な予感しかしない」

「ただの世間話しかしていませんよ」

「その“世間”が怪しいところなんだがな」


 殿はじろりと濁った眼差しで睨み付けてきたが、それもつかの間ですぐに呆れたような笑顔になる。事態をそれほど重く見ていないといった顔だ。


「まぁ、企み事は好きにやってくれ。私の邪魔になるなら、その時にでも対応するさ」

殿は見た目に似合わず力技ばかりですからね。そこがやりやすくもあり、不測の事態を招きそうでもあり」

「深く考えたって上手くいかない時はいかないものだからな。なるようになるさ」

「その考え方、流石ですね。本当に、貴女は強い方です。自覚があるだけ厄介ですよ」


 非力なものは無い頭を絞って、たとえ卑怯な策でも捻り出すしかない。しかし、どんなに死力を尽くしたとしても、強者はそれを易々と破ってしまう。生まれもってのこの差は埋めようがないほどに深く、広い。だからこそ、その慢心に付け込むことも出来る。それに、殿が思うよりも状況はこちらに良いものである。ただし、それは看破されてはいけない。


「まるで、自分が弱者だとでも言いたげだな」

「私はただの人間ですので」


 殿の言葉に、心臓が嫌な跳ね方をした。彼女は一体どこまで知っているのか。真顔で鎌をかけたりしてくるものだから、殿は性質が悪い。何でも知っている。そう思わせる雰囲気を持っている彼女は、その実知らないこともたくさんあることを私は経験から学んでいる。それでも、不安になる。


「ただの人間ほど怖いものはない。無知を、無力を自覚しているから恐ろしいよ」


 どうやら瓶に並々入っていた酒は無くなったらしく、殿は逆さにした瓶の口を覗き込んだ。そうして、未練たっぷりといった目つきで、瓶を放り投げた。ごとんと重い音を立てて、瓶は転がる。彼女は彼女で、床の上に大の字で寝転がっていた。


「上手いには上手いが、もう少し度数が高くてもいいんじゃないか」

殿にとっては水と同じですか」

「酔えないと調子が出ないな……」


 唇を尖らせて、ごろごろと転がる殿はまるで駄々っ子といった様子だ。素面でこれなのに、酔うと冷静さが増すのは一体どういう仕組みなのだろうか。妖怪と人間の違いを突きつけられたようで、眉間に力が入った。そんな私を殿がじっと見つめているのに気がついたので、思わず私の表情も引き締まった。うつ伏せになった彼女は組んだ手の上に顎を乗せて、やけに神妙な顔つきをしている。


「威嚇してるのか?」

「まさか。どうして私が貴女を牽制しなければいけないんですか」

「お前の今の表情が、犬が威嚇する時のそれに似ていたからな。鼻に皺を寄せて唸る感じで」


 鼻筋から眉間にかけてを揉んでみる。そんなことをしたつもりはないが、殿がそう言うのならそうなのだろう。その程度で片付けようと思ったのだが、彼女の表情が引っかかった。未だ真剣な面持ちでこちらを見ている殿の目を窺うように見つめ返すと、彼女はふにゃりと緩みきった笑いを浮かべる。先ほどまでの童子のような行動に似つかわしい表情だ。だから、それが気にかかる。


「何か、思うところでも?」

「――なーんにも」


 殿は話を断ち切るように、仰向けになって目を閉じる。彼女にとっては、寝るにはまだ早い時間だ。だが、もしそのつもりなら布団を敷かねばなるまい。


「もう寝られるのでしたら、寝具の準備をしますが――」

「んー、今日は一緒に寝るかー?」


 想定していなかったその言葉に、瞬時に頬が熱くなる。下腹部に血が集まっていく感覚は、気のせいではないだろう。多分、殿は添い寝をするという意味で先ほどの言葉を言ったのだ。決して、褥を共にするということではないはずだ。けれども、もしかしたら。淡い期待と理性とが脳内で争っている。


「うん、良い反応だ」


 殿が満足げに何度も頷く様を見て、ようやく冷静さを取り戻した。呆れと残念な気持ちとがない交ぜになって、今の私の顔はなんともいえないものだろう。殿はひとしきり私を笑った後に、伸びをして立ち上がった。


「ということで、飲みなおしに行ってくる。お前は大人しくここで待ってろよ。遅くなるだろうから、先に寝ておけ」


 言うだけ言って、すたすたと部屋から出て行ってしまった。わいんの瓶やら食べ物の滓やらが散らばる室内に取り残されるのはいつものこととはいえ、殿に対して若干の苛立ちを感じてしまった。