「これはまた、凄い数ですね」
「――粗野な手法だが、確実ではあるからな」
眼下に広がる人の群れを見て、殿は顔を顰めた。硝煙の匂いが風に乗って、山頂にいる私たちのところまで届いていた。
山崎の戦いで明智光秀を破った豊臣秀吉は、対立関係にあった柴田勝家をも破り、天下統一を目指して突き進んでいた。次々に諸大名を平定し、最後まで抵抗していた北条家の小田原城、今未曾有の大軍で包囲している。信繁もこの場には召集されており、忍城攻めに加わっているらしい。その忍城を守っている甲斐姫とは面識があるらしく、くのいちも仲が良いらしい。熊姫とも称される甲斐姫がどのような人間か気になったが、殿が秀吉の様子を見ると言うので彼女に付いて行くことにしたのだった。無論、殿は嬉しそうな顔はしなかった。
「信繁の方はどうなってるかな」
「さぁ? あの者のことですから、死にはしないでしょう」
「相変わらず素っ気のない奴だ」
「心配する振りでもした方がよろしいでしょうか?」
「……それはそれで気持ち悪いな」
殿は苦虫を噛み潰したような顔をする。私達兄弟のあり方については、もう諦めてしまったらしい。何だかんだ言って甘いこの方のことだから、信繁の方には監視をつけているのだろう。だから、私があやつのことを心配する必要はないのだ。
殿は真昼間、かつ戦の最中だと言うのに、飄々とした顔で胡坐をかき瓢箪に口をつける。その中に入ってるのは酒なのだろう。秀吉を見に来たというのに、これ以上近づく気は毛頭ないらしい。私も彼女の隣に腰を下ろす。
「戦場を肴に酒盛りですか」
「別に秀吉が死ぬ訳じゃないしな。それに、本命はあっちからやってくるだろうしな」
「本命?」
「そ。だから、お前は連れて来たくなかったんだが……お前のことだ。どうせ尾行するぐらいやってのけそうだ」
「だから、目の届く範囲に置いておいた、と」
「計画通り、か?」
その問いには明確な答えは返さず、苦笑だけを浮かべた。殿も呆れたように乾いた笑い声を漏らすだけだった。
それにしても、良い天気である。抜けるように青い空には触り心地のよさそうな白い雲が浮かんでいる。空を自由に舞う鳥の、なんと清々しいことか。これが、視界を下にずらせば、一点地獄へと様変わりするのだから驚きである。そうして、それを平然と眺める殿も流石としか言い様がない。
「どれだけ長引くんでしょうか」
「さぁてな。篭城戦だから長引くんだろうな。いっそ誰かが秀吉の寝首でも掻いてくれればいいんだがな」
「私がやりましょうか?」
殿はじとりと冷たい眼差しでこちらを見てくる。そうして、一つ大きなため息を吐いた。
「お前に任せるぐらいなら、とっくに自分でやってる。それが出来たら苦労しない。全く、面倒な立場だ」
「殿自身が手を出せないのは知っておりますが、何故私もなのですか?」
「御上にとっちゃあ、可愛い子供同士の争いならいざ知らず、下賎な輩が子供を誑かして争いを激化させるのは見過ごせないってことだ」
「いやぁ、本当負け犬は辛いっスねぇ」
すぐ隣から声がした。その者の吐息が耳にかかって、全身に鳥肌が立つ。声も出せずに飛び跳ねて、それと距離を取る。思っていたよりもずっと近くに、あの中性的な妖が立っていた。その者は、私と目が合うとにっこり笑って挨拶するかのように片手を挙げた。
「いやぁ、どうも。お元気でした?」
「お前のせいで不機嫌になったな」
「いやいや、負け犬さんには話しかけてませんて」
殿もこの者もお互いに視線を合わせない。それが、険悪な雰囲気に拍車をかけていた。無意識のうちに、殿の前に立ちふさがる。得体の知れないものを前にして、嫌な汗が止まらなかった。
「怖がっちゃって、可愛いっスねぇ」
「そいつに手を出すな。幸村も無駄に煽るな。座れ」
裾を引っ張られ、そのまま殿の隣に座りこむ。彼はにやにやと笑いながら、こちらを見下ろしてきた。殿は素知らぬ顔をして酒を飲み続けている。
「もう一方のババァとは違って、随分大人しいっスね。毒気が抜かれますン」
「所詮飼い犬だからな。牙はいらんだろ」
殿の言葉を受けて、彼は一瞬笑い顔を引っ込めた。驚いたともいいたげに目を丸くし、口を半開きにする。大仰なその仕草に、少し苛立つ。
「お腹痛いんスか? 大丈夫スか? 医者呼んできます?」
「酒は百薬の長だ。必要ない」
「いやいやいやいや、アル中が言っても説得力ないっスよー」
「お前も口煩い奴だな。その声を何とかしてくれ。耳障りだ」
彼は気持ち悪い笑みを変えずに、言葉を返そうする。しかし、口をぱくぱくと開閉させるだけで、開いた口から声は出てこなかった。途端に不機嫌な顔をして、私の隣にどっかりと腰を下ろした。
「あーあー、これでよろしいでしょうかー?」
先ほどまでの甲高い声とは一変して、今は少年寄りの声になっている。つまらなさそうに口を尖らせて、膝を抱えるその姿は不貞腐れた少年そのものだった。
「結構だ。――お前も飲むか?」
「お! 気が利くじゃないっスかー! それじゃ、お言葉に甘えて」
酒の入った瓢箪が私の前でやり取りされる。この疎外感は一体何だろうか。私の不満は放っておかれて、話は進む。
「で、お犬様は何しにこんなところに来たんっスか? まぁ、大方お猿さんを見に来たんでしょうけど」
「それもあるが、お前に用があってな」
「あれま。モテモテで困っちゃうなぁ」
「さぞかし人気なんだろうな。どこに行っても噂を聞くぞ。お前が姿を現せば、どっちの側の奴でも大勢殺到するだろうよ」
「どっち側、とは?」
「妖怪側でも、人間側でもってことだ。どっちつかずは辛いなぁ?」
殿は首を傾げて、楽しげに笑う。その顔めがけて飛んできた瓢箪を難なく受け取り、機嫌よさそうに口をつけた。
「尻尾振ってるだけの奴に言われたかぁないっスね」
「それもそうだ。ときに、お前はどうしてここに来たんだ? まだ人間の動静が気になるか?」
「――まぁ、一応、お猿さんは天下を揺るがす大事件のキーパーソンっスから。彼が上手く死んでくれれば、犯人も消滅、無事事件解決、大団円ってな訳です」
豊臣秀吉が死に、モノの回収が首尾よく進めば、この戦乱の時代が終わるということは理解している。しかし、犯人が消えるとはどういうことか。ここでいう犯人は誰なのか。私の直感はある一人の人物を指し示していたが、理性がそれを頑なに否定していた。思考は停止していても、耳はしっかりと音を拾う。
「ついでに、犯人の取調べもしておくか? 山崎ではそんな暇なかったしな」
「いやいや、別に取材しようとしまいと記事は書けますんで」
「捏造か」
「読者が喜ぶ記事って奴っスよ」
両隣の二人は出会い頭の雰囲気に比べたら、和やかに談笑している。私の頭の動きはますます鈍くなっていった。
「はてさて、お前の新聞は芋を焼く以外に使い道があったのか?」
「低俗な輩には、自分の高尚な文学は理解出来ないんっスよ」
「人間は嘘が好きだから、お前にはぴったりだろうさ」
「そういう、自分の一族は優れてるっていう勘違いは痛いっスよー。で、まぁ、正直で誠実実直な貴女はこの戦ではなーんにもする気はないってことで間違いないんスよね?」
「今は高みの見物と決め込ませて貰うよ」
「つーまーんーなーいー! じゃあ、自分のここいらでお暇させて貰うっスー。ババァの話は冗長って決まってますンで、とっとと退散!」
隣の彼は立ち上がり、その影がこちらにかかる。そのことに反応を返す気も起きなかった。が、彼はそんな私の態度が気に食わなかったのか、がしりと髪を掴まれる。無理やり上を向かされると、目の前に気味の悪いにたにた笑いが浮かんでいる。ちらちらと覗き見える赤い舌が不気味だった。
「現実逃避してるとこ悪いんスけど、残念ながら、貴女のたぁいせつな狐ちゃんは死んじゃいまちゅよーいひっ」
体中から力が抜けるのが分かった。呆然とする私に嘲笑を投げつけて、彼は一瞬にして姿を消した。
ただただ、そこに座っていることしか出来ない。何を言われたかを理解したくない。考えたくない。隣に座る殿は否定も弁明もしてくれない。どうすればいいのか分からなかった。青い空が無性に腹立たしく感じた。
「どういうことですか……」
やっとのことで搾り出した言葉は、思っていたよりもずっと揺れていた。殿は前を見据えたままだ。
「そのままの意味だ。アレを封印する時には私も一緒に封じ込められる。始めからそのつもりだし、他の方法は知らない」
殿のあまりに他人事な声色に、瞬間的に怒りがこみ上げてくる。
「貴女はどうしてそんなに冷静でいられるのですか? 封印されたら、もうこの世界で自由に生きることが出来ないのですよ。私は……私が見送られる立場だと思っていたのに。それなのに、私が見送る側だなんて。私には耐えられませぬ!」
「元々生きてなどいないし、お前の都合なんざ知らないよ」
愛されている、などと単純な関係ではないのは理解していた。それでも、こんな突き放されるような言い方をされるとは思わなかった。喉元まで迫っていた怒りは、みるみる縮んでいく。代わりに、堪え難い悲しみが溢れ出そうになるのが分かった。悲しみに飲み込まれる前にと、恨みにも近い怒りに身を任せる。何も考えたくなかった。
発作的に、殿の細い首に手をかける。そのまま彼女の体を押せば、あっさりと地面に組み敷くことが出来た。殿は抵抗するでもなく、されるがままであった。彼女に馬乗りになり手に力と体重を込めていくと、彼女の顔に僅かに苦悶の色が浮かび始める。僅かに身を捩って呼吸をしようとする殿の目には、薄らと涙がにじみ出ていた。それが、私の高揚感を煽る。いっそこのままこの手で殺して、私も一緒に死んでしまおうか。そんな考えが脳裏をよぎる。殿の首に流れる血の動きが、手を通して如実に感じ取れる。喉仏が上下に動く。更にきつく首を締め付けると、それらの動きが益々鮮明に伝わる。もっと、欲しい。もっと、彼女を苦しめたい。そうして、それを見ているのが自分だけだということが、堪らなく嬉しい。その時、殿の手が私の手に添えられた。興奮で熱くなる私の体と、血の気の失せて冷え切った彼女の手とが、相反するもののように思えた。殿は、私の手を引き剥がそうとするでもなく、ただ触れているだけだった。殿と私の視線が合う。彼女は何も言わなかった。その代わりに、ゆるゆると力なく私の顔に片手を伸ばす。頬に添えられたその手も、酷く冷たい。殿は、苦しげに眉を寄せて、それでもまっすぐにこちらを見ていた。彼女の口がゆっくり動く。
「男の、涙は……みっともないな……」
掠れた声だった。腕の力が抜けるのが分かった。荒い息をしながらも、殿は平静と変わらない調子で笑う。彼女の指先が私の目元を拭う。そこで初めて、私は泣いていたのだと理解した。
「すみま、せ――」
言葉は最後まで出て行かなかった。喉にこみ上げるものを飲み込むのに必死だった。息をするのも苦しい。じわりと視界が歪む。吐き気もしてきた。体の震えは徐々に大きくなっていく。上体を起こしているのも辛くなり、殿の上に覆いかぶさるように倒れた。
「重いな」
殿はぼそりと呟いて私の体を無造作に横にずらす。上半身を起こした彼女の横に、転がる。殿は私の髪を梳く。その優しい手つきのせいで、余計に目頭が熱くなった。
「気にするな。どうせ死なない」
「でも、貴女は消えてしまう。私のもとからいなくなってしまう」
殿の着物を握り締める。今すぐにでも消えてしまうのではないかと、気が気ではなかった。幼い頃から彼女はずっと隣にいてくれた。誰も見てくれなかった幸村を、殿だけが見てくれた。支えてくれた。今まで散々寄りかかっていた彼女を失うことを想像するだけで、胸が苦しくなった。逃げ道を探そうとして、ふと思いついたことを口にする。
「――私では、駄目なのですか?」
頭を撫でる殿の手が止まる。彼女にも意味は通じたらしい。封印に殿も巻き込まれるのならば、それを私が代わることも出来るのかもしれない。けれど、彼女は首を横に振る。
「お前では力不足だ」
殿がそう答えるのは、簡単に予想できたことだ。例え、私が代行可能であったとしても、彼女はやらせようとはしないだろう。かといって、殿の助けなしに封印をする方法を知ることは出来ないだろう。
「――そう答えるだろうと思ってましたよ」
「よく分かっている。まぁ、良かったじゃないか。別れを予め覚悟しておくことで、痛みを軽減することが出来るからな」
何の慰めにもなっていない。どちらにせよ彼女が消えてしまうことに変わりはない。
もう、何も考えたくなかった。
底なし沼に沈んでいくように、私の意識も暗色に塗りつぶされていく。今は髪を撫でる殿のことだけを想って、安らかな眠りにつきたかった。