二人を見送ってから、殿の隣に座ろうとする。しかし、私が近づくと彼女は鋭い視線と荒い言葉を投げつけてきた。


「お前もとっとと寝ろ」

「嫌です」


 無言の圧力を無視して、彼女の隣に座る。また、頬を抓られては敵わないので、気持ち距離を置いておいた。


「酒が不味くなるな」

「そもそもそんな飲み方をしていたら、味も何もあったものではないでしょうに」

「……嫌味な性格になったな。昔はあんなに素直だったのに」

「子は親に似るものですよ。まぁ、貴女を母親と思ったことはありませんが」

「それは結構。お前みたいに飢えた餓鬼は必要ない。それこそ脛を齧り尽くされそうだ」

殿の御御足は、それはそれは美味しいのでしょうね」


 その味を、舌触りを想像すると、背筋がぞくぞくとする。殿も同様のようで、冷え切った目でこちらに一瞥をくれた。殿ならば、食べるのも食べられるのも、どちらも嬉しいことだ。自然と口角が持ち上がる。一方で、彼女は口をへの字に曲げると、がしがしと頭を掻いた。


「お前、本当に人間か? 私の知ってる人間とは勝手が違うぞ」

「残念ながら、人間ですよ。ええ、本当に残念なことに」


 ため息をついて項垂れ、ゆるゆると首を振る。殿は隠すことなく舌打ちをして、足を組み空を仰いだ。つま先が苛立たしげに揺れている。


「厄介だ。お前は相当厄介だ。人畜無害な面をして、その実面倒で手に負えない。嫌な拾い物をしたものだ。捨てるに捨てれんしなぁ……」

「そういうところが、好きですよ」

「そういうのは人間の女に言うんだな」

「今の貴女は人間の女性に見えますよ」


 苦笑交じりにそう言うと、殿は鼻で笑って杯を置いた。次の瞬間、ばちんという鞭で叩いたような音がして、殿の姿が消える。かと思えば、瞬きをした瞬間には、そこには一匹の狐が座っており、後ろ足で耳を掻いていた。


「流石に、この姿に欲情は出来んだろう」


 そう言って得意げに、犬歯を向き出して笑う。尻尾をゆらゆらと大きく揺らすその様は自慢げだ。つんと澄ました口先や、絹のように細く輝く体毛が覆うしなやかな体の線は美しく、足先まで洗練されている。思わず殿の尻尾を掴むと、彼女は飛び上がらんばかりに驚いた。逃げ出される前にと、その小さな体を抱き上げる。


「別に、問題はないですね。むしろ、愛玩動物のようで人間の時より触ることに抵抗がなくなります」


 殿の口元に啄ばむようにそっと己の唇を重ねる。彼女の全身の毛が膨れ上がったかと思ったら、直後に頬に鋭い痛みが走った。驚いて腕の力を抜いたために、するりと殿の体が逃げていく。慌てて捕まえようにも、尻尾の毛が手を掠めただけだった。思わず舌打ちが漏れる。過ぎたことを後悔しても、今更どうにもならない。肩を落としながら痛む頬に手をやると、血がついていた。殿の爪あとが、頬には刻まれているのだろう。口吸いの代償がこれならば安いものだ。殿はこちらを振り向いて、愉快そうに笑う。細く釣りあがった目が月光を反射して妖しく光る。彼女の左目には赤黒い涙の痕が残っていた。


「その目は、どうしたのですか」


 声が揺れているのが分かった。殿の体は実際にあるものではない。だから、殿がそうしない限り、彼女の容姿が変わるのはありえないことなのだ。それが、まるで怪我の痕のようなものを残すなんて信じられなかった。
 殿はばつの悪そうな顔をして、前足で顔を洗う。


「言っただろう。烏に突かれたと」

「どうして、そんな」


 殿が烏に遅れを取るなどとは想像も出来なかった。今ですら怪我の痕が残っているのならば、私を迎えに来てくれた時にはどれだけ重傷だったのだろうか。殿がその姿を見せなかった。それだけで、怪我の酷さは容易に思い浮かべられた。


「――私の慢心が招いた結果だな」


 殿は項垂れて、落ちつかなげに床を爪で掻く。そんな彼女に近寄って、そっと手を伸ばす。殿は逃げることなく、むしろ擦り寄ってきた。殿の目元をなぞると、彼女は目を細めて喉を鳴らした。


「もう痛くはないのですか?」

「全く、怪我を直し忘れてたのは失態だったな。お前ごときに心配されるとは」

「貴女は見かけによらず無鉄砲で考えなしですから、心配なんですよ」

「言うようになったな、お前……」


 そう言う殿は、床に寝そべってしきりに首筋を撫でるように催促している。大きく振られる尻尾が、彼女の心境を表しているようで思わずくすりと笑みが漏れた。


「……生理現象だ」

「えぇ、そうですね」


 そっぽを向いて、尻尾を極力動かさないそうにしている殿が可愛らしくて堪らない。止めきれないのか、尻尾の先がわずかに揺れていた。暫くそうして殿に命ぜられるがままに、体を撫でていた。彼女がここまで甘えてくるのは相当珍しいことだ。私の顔は終始緩みきっていたことだろう。


「そういえば、私も鳥の妖怪に会いましたよ」


 ふと思い出したことを口に出すと、殿が飛び起きた。その姿はいつの間にか人間に戻っている。私の両肩を掴んで、殿は身を乗り出してくる。


「何時、何処でだ! どんな奴だった!」

「えぇと……天音殿が私のところに来る直前に、大文字山の山頂付近で会いました。見た目は普通の人間で黒い服を着てて、女とも男ともとれる容姿をしていましたね。あと、宙に浮かんでましたね。で、天音殿がその方を鳥頭と」

「あぁ、くそ……天音は何を考えてるんだ!」


 殿は大の字に広げた体をばたんと床の上に投げ出す。額に手を当てて、目を瞑った彼女は何かを熟考しているようだ。
 殿を襲った烏と、私を襲おうとしたあの妖は同一人物なのだろうか。天音殿に簡単に追い払われたあの妖に、いくら油断していたとはいえ殿が遅れを取るとは思えない。殿の発言も気になった。天音殿は何か企んでいるのだろうか。そういえば、あの妖怪は天音殿のことを「裏切り者」と呼んでいた。彼女は何を考えているのか。普段の言動ですら不可解な彼女の企みを看過するのはとても難しいことのように思えた。


「――明智光秀が死んだ」


 殿の言葉はあまりに唐突だった。明智光秀とは一体誰なのだろうか。私の疑問をそのままに、殿は言葉を続ける。目を手で覆いぶつぶつと呟く彼女は、自分の考えを整理している風でもあった。


「信長の業は、光秀に移った。しかし、奴はそれに耐えうるだけの器ではなかった。だから、それはあの猿に移ろうとした。そのこと事態は好都合だったんだ。その瞬間を狙えば良かったのだから。幸村のことは天音に任せたから大丈夫だろうと踏んでいたんだ。しかし、そのどちらもあの烏に邪魔された。計画は全て天音が立てたし、そのために必要な人手も天音が用意した――あいつに限って、不備があるはずもない。となれば」

「件の妖が言っておりました。天音殿は、裏切り者だと」


 殿は唸り声を漏らしたきり、暫くは口を噤んでいた。重い沈黙が辺りを流れる。言葉にするだけの価値があるものが見当たらず、私はただ彼女の次の行動を待つしかなかった。
 座りが悪くなってきた頃になって、ようやく殿が動き出す。ばっと飛び起きたその表情は、いつものそれと変わりなく澄ましたものだった。


「よし、寝るか」

「へ?」

「寝るぞ。うだうだ考えても意味はない。頭のいい奴の考えることなんて、私に分かるか。一族の誇りも守るし、幸村も守る。それだけの実力が私にはあると信じてる。天音も一族のことを思っていると信じてる。何も問題はないな! 寝るぞ!」


 そう言うが早いが殿は立ち上がる。あまりに唐突で投げやりなその言葉に呆然としていると、すっと手を差し出された。反射的にそれを掴むと、強い力で引っ張り上げられる。


「あ、あの、それでいいのですか。失礼なようですが……天音殿の行動は、その、怪しいと思うのですが……」

「別に問題はない!」


 きっぱりと言い切られては、食い下がることも出来ない。殿は話し合いは終わりというかのように、ぱんぱんと手を叩いた。


「後片付けは任せたぞ」

「それは勿論ですが――」

「まだ何か言いたいのか?」

「一緒に寝てもいいですか?」

「駄目だ」


 殿はそう言って、にやりと悪戯っ子のような笑みを浮かべる。それから、杯と徳利に残っていた酒を飲み干してから、しっかりとした足取りで彼女に宛がわれた部屋へと向かう。


「おやすみなさい」


 背中にそう声をかけると、手をひらひらと振って返事をしてくれた。