結局、私が上田へと着いたのは、本能寺での出来事から二週間ほど経ってからだった。
その頃には既に、本能寺での出来事が細かく知れ渡っていた。殿もなにやら父上と話をしていたようだが、いつもの如く私は除け者にされた。今更、真田家なぞどうでもいいが、私にとって不利益になる密談を交わしているのではないかと疑ってしまう。悶々とした思いを、渋い茶とともに一気に飲み干した。
「仲間はずれにされて悲しい、って感じですかにゃ?」
暇つぶしの相手なのか監視のためなのかは定かではないが、私の傍らに座っていたくのいちが笑う。こうしてくのいちと二人きりで夜の縁側に並んで座って月見をしているなんて、なんだか奇妙な感じがする。信繁の奴が見たら、眉間に皺を寄せて威嚇してきそうだ。その様を想像して、それも中々に面白いと思いながらも、口からはため息が零れ落ちた。
「私が知らないことがあるのことが気に食わないだけですよ」
「うーん、でも、姐さんなら秘密なんて一杯あるでしょ」
「それは勿論そうですが……何より、信繁が知っていて、私が知らないことが嫌なんですよ」
「ま、嫉妬も程々にー」
空になった湯呑みに茶を注ぎながら、くのいちは私を諌めた。彼女のあの襟巻きの先が、縁側から落ちて揺れている。この暑い中、よく身につけていられるものだと内心感心する。くのいちは私の視線に気がついたのか、さりげなく襟巻きの裾を隠した。
「健気ですね」
「なーんのことでしょ?」
くのいちはそう言って笑うものの、笑い声が普段のそれに比べて幾分か上擦っていた。可愛いところもあるものだと、少し信繁が羨ましくなる。
「好いた人の傍にいられるというのは、どうしてああも胸踊るんでしょうかね」
「でーすーかーらー! 信繁様とは何もないですって!」
「信繁とは? じゃあ、他の人ならどうなんです?」
「あたしは――あたしは忍びですから。道具に色恋沙汰は無しですよんっと」
くのいちの口角は持ち上げられているものの、眉は歪められていた。まるで自分に言い聞かせるかのように呟かれた彼女の言葉は、そのまま彼女の胸を抉ったのだろうか。道具になりきろうとして、それが出来ないでいる。彼女の苦しみは、そこはかとなく理解することが出来た。私だって、同じだった。殿のために。昔は、その思いだけを抱いて彼女の背を追っていた。
「道具だって、心は持ちますよ。大事に使われた道具は百年を待たずに付喪神になりますし、それが人の形に近ければ近いほど情というのは宿るものです」
私の思いに邪なものが混ざってきたのは何時ごろからだったろうか。私も大事にされてはいたのだろう。だからこそ、変な期待を抱き自惚れ、その思いが大きく膨らんでしまった。もっと私のことを見てほしい。私だけのものになってほしい。欲求は尽きることがない。そのことに気がついたからこそ、殿は私を遠ざけようとしている。彼女は優しくて残酷な選択肢を選んだのだ。
「幸村様が言うと、なんだか説得力がありますねー」
「私の場合は知識ばっかりで、実体験はあまりないんですけどね」
「あれま。意外っスね」
「殿が仕事の場には連れて行ってくれなかったものですから」
殿にとって、私は何時までたっても子供らしい。年齢差を考えると当然かもしれないが、それが歯がゆい。私は何時だって未熟者なのだ。そんな私の選んだ選択なのだからと、殿は私の気持ちを気の迷いだとしか受け止めてくれない。まるで大きな間違いを犯したとでも言いたげな彼女の表情には、苛立ちすら感じることがある。私の心中が少しばかり荒れてしまったことには気がつかず、くのいちは目を丸くして話に食いついてきた。
「仕事!? 姐さん、働くんスか? おっどろきー。そういうものとは縁遠そうなのにー」
「多分、葉っぱなどを金貨に変えることも出来るんでしょうけどね。私の前で、そういったことはしようとしませんよ」
「――大事にされてるんですね」
「彼女にとっては、私はまだまだ幼子なのですよ」
「姐さんって、一体何歳なんスか?」
「時には二十一だったり、はたまた三百三十三だったりと、日によって違いますね」
私の返答にくのいちは苦笑いを浮かべる。その時、風に乗ってあの嗅ぎ慣れた匂いがしたような気がした。とはいえ、鼻で感じたというより皮膚に触れたという感覚が近い。直感が、あの方が戻ってきたのだと知らせていた。思わず立ち上がって、その方向に目を凝らす。粗末な門の向こうから、今しも殿の顔がひょっこり覗いたところであった。思わず駆け寄った私の足は、しかし数歩も歩かず止まってしまう。殿の後ろから信繁が現れたからである。また、か。二人で楽しく会話でもしていたのかと思えば、この男を斬り捨てたい衝動に駆られた。
「お二人で、お帰りですかぁ……」
後ろでぼそっとくのいちが呟く。信繁の顔に浮かびかけていた嘲りの色は、一瞬にして引っ込んだ。殿だけがいつも通りのすまし顔でこちらに近づいてきた。そうして、驚いたことに私に笑いかけてくる。その笑みが、天音殿のそれに似ていて、思わず背筋が粟立った。
「お前は本当に人間か? 厄病神の一種じゃないのか?」
恐ろしいほどに綺麗で整った笑顔を形作りながら、殿は私の頭を拳で挟み、こめかみに当てられた拳をぐりぐりと押し込んできた。ご丁寧に気持ち人差し指を突き出しているために、突き刺さって鈍い痛みが走る。思わず手で払いのけようとしても、その瞬間だけ殿の腕が消えてしまう。痛みのあまりに漏れるうめき声は、殿の説教に掻き消された。
「大体なぁ、お前があそこまで鈍感かつひねくれ者じゃなかったら、こんな面倒なことにならなかったんだぞ。いや、私の態度にも問題があることは認めるが、お前に比べたら可愛いものだ。こっちの言うことも聞かず、その癖主張だけはしっかりしやがる。いい加減にしてくれ。こんな手のかかる奴だとは思わなかった!」
ぐちぐちとそう言う殿の目は釣りあがり、こちらを鋭く睨み付けていた。彼女を怒らせる何かあったのだろうことは分かるが、肝心のその事件が分からなくては何も言えない。殿に怒られる原因の心当たりがありすぎて、どれについて言われているのかがさっぱりだった。
「な、何のこと、を仰って、るのか、わ、分かりませ…痛っ! 痛いです、止めて下さ」
殿の手を掴んで引き剥がそうとしたのだが、案の定それは叶わない。彼女は標的をこめかみから頬へと移してきた。ぴくぴくと口角を痙攣させながらも無理やり笑いながら、殿は私の頬に爪を立てて引っ張る。肉が引きちぎれるかと思った。
「なーにが、仰ってることが分かりません、だ。お前の行動の一から十まで、全部が全部悪影響を与えてるんだよ! そもそも、あの時誘拐なんざされなきゃ、こんな事態になってない! 私はもっと自由に! 気ままに! 遊んでいられたのに! くそ、お前のせいだ! 食ってやろうか!」
唇がてんでばらばらな方向に引っ張られ、返事をしようにも出来ない。殿はいまや笑顔を取り繕うこともせずに、全身で怒りを表していた。彼女のねちっこい愚痴はいつだって聞かされていたので、耳にたこが出来ている。それでも、出会いを否定されることにはまだ慣れない。鼻の奥が少し熱くなった。殿がそれに気がついたのか、ぴたと手を止める。
「あぁ……えっと、痛かった、よな?」
「いいですよ」
「へ?」
間の抜けた顔だ。そう思った。そして、それがたまらなく愛おしい。顔の横で浮いている手持ち無沙汰な彼女の両手を、己の首へとあてがった。
「いいですよ。私のこと、食べてしまっても。貴方と一つになれることほど喜ばしいことはありません」
彼女の手越しに、自分の首を絞めようとする。殿の低い体温と私の火照る体とが混ざり合って、心地いい。本当にこのまま溶け合えたらいいのに。だが、それは出来なかった。殿はしかめ面をして、乱暴に手を振り払った。そうして、荒々しい足取りで私の横を通り過ぎる。彼女の背中に視線を投げても、こちらを見てくれることはない。ため息を零す。その時、無骨な手が肩に置かれた。そちらを見れば、信繁もちらりとこちらを目線だけで見てきた。
「助かった」
「別にそなたのためではない」
「それでも、くのいちの気を逸らせたのはよかった」
信繁はそこで口を閉ざす。何か言いたげではあるが、それを聞き出すつもりはなかった。どうせ、下らない慰めか諌める言葉を聴かされるだけだろう。そうして、そんなことは言われなくても分かっている。だが、私のようなちっぽけな人間が、殿を捕らえておくには自分の命でもって檻を作るしかないのだ。私は、彼女にとって魅力的な要素を持っていないのだから。
「そなたが羨ましいよ」
「奇遇だな。私もそう思っているよ。そなたならば、立ち回り次第でどうにでもなるだろう?」
「……お互い、無いもの強請りだな」
互いが互いを嘲り笑う。それから、殿とくのいちが待つ縁側へ向かった。くのいちは気遣わしげにこちらを向いてくれるが、殿はそっぽを向いて徳利から直に酒をあおっていた。
「信繁様はどうします?」
「今日はもう寝ることにする。殿のことはあの者にでも任せて、そなたも休むといい」
「え、いや、そんなこと出来ませんってー警備とかもありますし」
「そのくらい私が代わってやる。むしろ、侵入者の一人や二人来て欲しいぐらいだ!」
殿が語気も荒くそう言うものだから、くのいちはおろおろとうろたえて、信繁と殿を交互に見る。だが、信繁は欠伸を噛み殺して自室へと足を向け、殿はなおも不機嫌そうな顔で酒を飲み続けていた。
「後のことは、任せておいてください」
「じゃあ、お言葉に甘えます、ね?」
くのいちは首を捻りつつも、信繁の後を追って去っていった。