「――さん、お兄さん!」
ゆさゆさと肩を揺す振られるその感覚で、目が覚めた。棺桶に横たわっていたはずなのに、気がつけばどこかに寄りかかって寝ていたらしい。私を起こそうとしている女のものらしき花の香が鼻腔をくすぐる。期待していたものではなさそうだと落胆しながらも、重たい瞼を持ち上げた。
「あぁ、やっと起きはりましたね」
瞼の向こうには、柔和な笑みを浮かべる一人の女性がいた。切りそろえられた艶やかな黒髪を揺らして、こちらの顔を覗き込んでくる。髪飾りがしゃなりと涼しげな音をたてた。
「こないな所で寝るなんて無用心どすえ?」
眉間にわずかに皺を寄せる女性の声色は、まるで子供を叱りつける母親のそれのようだった。それだけで、この人がそれほど悪い人ではないということが伺えた。
紅白の軽やかな衣装を身にまとった彼女は、多分巫女なのだろう。妖怪だけでなく人間からも僅かに感じられる、あの独特のきな臭い感じを彼女からは一切受けなかった。胡散臭さの塊ともいえる殿や天音殿とずっと接していた私からすれば、彼女はあまりにも近寄りがたく思わず壁に背中を押し付けていた。
「そないに怖がれへんでおくれやす。別に取って食ったりしまへんよ?」
私を安心させるかのように、彼女は朗らかに笑った。そうして、こちらにすっと番傘を持っていない方の手を差し出してきた。ここでその手を払う訳にもいかずそれを握り、引っ張られるままに立ち上がる。ぼろぼろの屋根からは明かりが降り注ぎ、爽やかな風が壁の隙間から入り込む。奥のほうには祭壇らしきものがあり、どうやらここは廃寺らしかった。殿よりも僅かばかり背の高い彼女は、こちらを見上げて口を開く。
「ところで、こないなとこで何をしとったんどすか、お兄さん?」
「上田に向かう途中で……」
一体どれほどあそこに座り込んでいたのか、かちこちに固まった体をほぐす為に腕を伸ばしたり腰を回したりする。女性の問いに自分は何気なく答えたつもりだったのだが、彼女ははっきりと分かるほどに息を吸った。そちらに視線を向けると、目を大きく見開いていた。
「上田に? そらえらい大変どすなあ。それに随分身なりもええようで。もしかしてお武家はんどすか?」
「いえ、ただの旅人ですよ。ところで、ここは何処なんです?」
天音殿の言を信用するなら、起きる頃には上田に着いていてもいいものだ。私を放り出す丁度良いところが見つからなかったために、近い場所にあったここに置いていかれたのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。その予想は、彼女の答えによって真であることが分かった。
「ここは出雲国の秋鹿郡どすえ?」
すぐには返す言葉が浮かんでこなかった。一瞬でも、天音殿を信用しようとした私が愚かだった。一体、彼女の言葉のどこまでが真実であったのか。まだ現世にこうして立っていられることに安心しながらも、どろどろとした悪意が胸の内でとぐろを巻きはじめるのを感じる。このまま殿が探しに来てくれなかったら、そのうち餓死しそうである。着の身着のままで突っ立っている自分は、あまりにも頼りない。
「そう、ですか」
「それにしても、こないなトコで寝るなんて無用心どすよ。ちゅうより、風呂敷包みのひとつも見当たれへんどすけど、盗まれたんではおまへんどすか?」
彼女もどうやらその点が気になったらしく、そう問いかけてきた。事情を説明する気はさらさらなく、かといって彼女の話に合わせるには機を逸してしまっているように思えた。今更わざとらしく慌てて見せても、怪しいだけだ。しかし、彼女と私は所詮他人。これ以上詮索される前に、とっとと逃げ出すべきだろう。何しろ私に時間はない。たった一晩で京から出雲まで来れたのならば、一日で上田に行く方法もあるはずだ。それを私が利用できる可能性が低くとも、その努力をすれば少しは殿の機嫌も良くなるだろう。それもこれも、彼女が迎えに来てくれなければ、意味がないことには目を瞑ることにした。
「とにかく、私は先を急ぎますので失礼します。わざわざ有難うございました。では」
彼女に軽く頭を下げ、その場から立ち去ろうとする。しかし、それは叶わず、女性にしては強い力で彼女に手首を掴まれた。唐突なその行動をいぶかしみながら彼女の顔を見てみれば、先ほどまでの柔らかい表情とは一変して真面目な顔つきで私のことを見返してきた。
「行ったらあきまへん。うちと一緒に出雲にいにましょ」
「いえ、ですから、私にはしなければならないことが」
「あったらあきまへん。お兄さん――死にますえ?」
突拍子もない言葉に、私は苦笑いを浮かべるしかなかった。だが、彼女はそんなことは意にも介せず、依然として厳しい面持ちで私の目を真っ直ぐに見つめる。視線を合わすことに耐えられず、外の景色に目を移す。朝露に塗れた木立が、風に凪いでいる。夏の香りはその風に乗って、私の横を通り過ぎていった。
「お兄さん、うちと一緒に出雲にいにましょ」
「お断りします。今更死など恐くありません」
「そらお兄さんが死んでへんから言えるんでっせ。このまんまやとお上のところにいけんと彷徨うことになってしまいますえ」
この人も、そういう道を進んでいるのだと、今更ながらに気がついた。仮にも巫女服を纏っているのだから、その程度すぐに気がついても良かったものだが、如何せん武田軍の事情を知っていただけに、彼女もその手の人だと勝手に思い込んでいたのだ。
彼女は殿の残り香でも感じ取ったのだろうか。親切心で私に忠告してくれているのだろうが、それはありがた迷惑でしかなかった。
「それはむしろ好都合です。もう失礼します」
彼女の手を振り払って、これ以上何か言われる前に歩き出す。その瞬間、殺気を感じて咄嗟に跳躍して身を翻し、彼女と向き合う。そこには番傘を構えた彼女がいた。それが様になっており、随分な手だれであることが伺える。
「どういうつもりです」
「そないに怒れへんでおくれやす。うちはお兄さんを出雲に連れていこ思っただけどす」
「甚だ迷惑ですね」
こちらにも武器があるのならとっくに打ち倒しているのだが、素手なので迂闊には距離を縮められない。しかし、所詮は女の力だ。無傷は無理でも、負けることはない。瞬きの間にそこまで考えて、女に組み伏せようとしたその時、がたんと重い何かが落ちる音が背後で聞こえて咄嗟に振り返る。
眩い閃光が走った。直後に暗転。目には鋭い痛みがずきずきと走り、瞼を開いているのか閉じているのかも分からない。ただ、光が一瞬にして失われてしまっていた。
「やぁん、酷いお人」
「それでも離れぬのだから、こちらもほとほと困っているんだ。それに、そもそも人ではない」
それは紛れもなく殿の声だった。女は、殿の突然の登場にもかかわらず、微塵も驚きを声に表せはしなかった。
「まるでお兄さんが悪人みたいな口ぶりどすなぁ」
「そう言ったつもりだが? だからこそ、そっちには合わんよ。いや、なに、お前がこいつの性根を叩きなおしてくれるっていうなら、それはこちらとしても有難いことだが」
「それなら任しておくれやす」
「よし、じゃあ話がまとまったところで私はそろそろお暇させて頂こう」
「ちょっと待ってください」
まだ見捨てられていないことへの喜び、突如として目が見えなくなってしまったことへの驚きで、今まで口を挟めずにいたが、雲行きが怪しくなってくるとぼんやりもしていられなかった。
殿を捕まえようにも、何も見えなくてはそれも出来ない。殿はそれを見越して、私の視力を奪ったのだろうか。だが、曲りなりにも妖術を習ったのだ。気配ぐらいなら感じることが出来る。特に殿のそれは特徴的であり、彼女がそれを抑えていたとしても探し出すのは容易であった。
しかし、殿へと伸ばした手は空を切った。確かにそこに存在は感じられるのに、感触がない。
「これは、どういうことですか」
「見える、聞こえる、感じるからと言って、必ずしも触れられるということはない。頭蓋の中でふんぞり返るそいつは、実に頼りないものだな」
飄々とした殿は、声だけしか感じられない。それだけを頼りに手探りで彼女を探そうとする。その手が暖かな人間の手に包まれる。
「着いて行ったらあきまへんよ」
優しく穏やかで、虫唾が走るその声色に反射的に女の手を振り払おうとする。だが、その手はしなやかで、私の手首を離そうとはしなかった。いくら力を込めても離せないどころか、どんどんとその力は強くなり、今では骨の軋む音が聞こえそうなほどであった。女と繋がってる部分から、ぞくぞくと鳥肌が広がっていく。しかし、同時にそこから温かみも感じていた。思わずその身を委ねたくなるような、優しいものが体を包む。体中から力が抜けて吸い取られていくような、気持ち悪く、蕩けるようなその感覚は、奇妙としか言いようが無かった。
「――癪だな」
瞬間、破裂音と衝撃が体を震わせた。何も見えぬが、何かに弾き飛ばされて尻餅をついたのだということは分かった。現実が、はっきりとした感触が、戻ってくる。
「あらぁ、うちに任せてくれる言うてはりましたのに」
「貴様のやり方が不愉快だったのでな。そもそも、貴様らのようなものの世話になることは、誇りを傷つけることでもあった。最近、感覚が麻痺してきてるな。全く、新しいことは喜ばしいことだが、古きものを忘れては意味はないのにな。――っと、無駄話が過ぎた。ここはとっとと、退散させてもらうことにしよう。失敬」
殿はきっぱりとそう言った。そうして、殿のいた方向にぐいと乱暴に腕を引かれる。それと同時に足が床を離れて、頭の天辺を細く絞られるような感覚に襲われる。女が言葉を返そうとしたのか、息を吸う音が聞こえたがその音は遠く離れていき、細く伸縮性がある管の間を無理やり通り抜けさせられる。少なくとも私にはそう思えた。腸が押しつぶされ、伸ばされるような吐き気を催す感覚がした後に、不意に右足が地面に触れた。耳に届いたのは、風に凪ぐ木立の音と水が流れる穏やかな音だった。あの廃寺ではない。急激な変化に全くついていけなかった。目も見えず、知らない場所に放り出されて心細い。ただ、右腕を掴む殿の手のしっかりとした感触だけが頼りだった。もっと安心感が欲しい。その思いで、彼女の体に手を伸ばした。しかし、何も捕まらない。
「阿呆か、貴様は」
ころころと殿が笑ったかと思えば、後頭部をぐいと押されて前のめりに倒れこむ。だが、そこには私を受け止めてくれる柔らかい体があった。殿の香りがした。甘みがありながらも癖のある、彼女の匂いだ。殿の肩に顔を埋めるような格好になっているらしく、両腕をどうすべきか悩んだ後に恐る恐る彼女の背に回してみる。殿は笑い声をこぼして、後頭部にあてたままだった手で、私の髪を梳いてくれた。その感触が気持ちよくて、目を細める。こうして、面と向かって抱き合ったのは何時振りだろうか。目が見えないことが、悔やまれて仕方なかった。
「安心しろ。もう私が此処にいるから。これは、あれだな。心寂しい思いをさせた侘びだな。嫌か?」
「め、滅相も無いっ!」
意気込んでそう答えると、殿はまた軽快な笑い声をあげた。彼女の笑顔が目蓋の内に浮かぶ。それを、どうして直接見られないのか。
「――と、ところで、どうして何も見せてくれないのですか!」
「私の見栄だ。今はちょっと……見るに耐えない姿をしている。ここまでくれば、もうじき形ぐらい作れるようになるから、暫く待て。話は歩きながらでも出来るからな。さ、いくぞ」
そう言って、殿は体を離し、私の手を引いて歩き出した。彼女の感触が名残惜しいが、いつもよりもゆっくりとしたその歩調が私を気遣ってのことと分かって嬉しくなる。しかし、同時に彼女の身に何が起こったのかと心配にも思った。あの殿が、普段の姿を維持できないほどに弱っているなんて。そのことを問いただしても、彼女はきっと何も答えてくれないのだろう。殿はいつだって危険なことから私を遠ざけてきた。ただ、私が自分の身を守れるようにと、それだけのことしか教えてはくれなかった。それでも、私の無言の問いかけが気にかかったのか、彼女は「烏に突かれただけだ」そう言って乾いた声で笑った。