彼女の指が頭に触れようとするその時間が、何時間にも感じられた。だからこそ、落ち着けた。どうせ勝てないが、抗わないのは癪に障る。心を空っぽにして、ただ体中を巡る血潮だけを感じ取るよう努める。自分は確かにここにいる。己の体を、心の存在を確かめる。
本当に?
不意に心がざわついた。本当に私は真田幸村なのか。今の自分を形成する記憶が、果たして本当に体験したことなのか。いや、そもそも、私とは誰であったろうか。
とらえどころの無い不安が、たちまちのうちに私の心を支配した。それと、連動して胃が気持ちの悪い震え方をする。自分の境界線が曖昧になって、ともすれば夜風に攫われて消えてしまいそうだった。自分は今立っているのか座っているのかすら分からない。握り締めた手のひらに突き刺さる爪の痛みだけが、かろうじて今の自分を支えてくれていた。だが、その支えは非常に弱々しい。不安と恐怖に満たされた海に胸までどっぷりつかって荒波にもまれているようだった。暗く重い波が来ればあっさりと飲み込まれるだろう。
ここは酷く寒い。体が自然と震えはじめる。どうして誰も助けに来てくれないのだろうか。どうして私は独りきりなのだろうか。殿は一体――。
その時、乱れる心を更に震わせる感情が湧き上がって来た。熱湯のように突き上げてきたそれは、たちまちのうちに心を支配した。
私が誰であれ何であれ、それが一体何の関係があるのか。どうでもいいことだ。殿がいる。そして、殿を思う私がいる。それで十分だ。他のあらゆる要素はただの装飾であり、芯には影響を及ぼさないのだ。どうして、今までそんな単純なことを忘れてしまっていたのだろうか。あまりにも馬鹿馬鹿しい思索に時間を費やしてしまったものだ。可笑しくてたまらない。地面に足を投げ出して、腹の底から溢れる笑いをそのまま表した。
「は、一体どんな教育をしたのかしら。こんな血迷った方法で逃れた人間なんて、そうそういないわ」
なおもひたすらに笑い続ける私とは対照的に、天音殿は機嫌を損ねたような口ぶりであった。そんな彼女の様子すらも、愉快で仕方が無かった。
「彼女の名誉のために言いますが、殿は至って正統なやり方を教えてくださいましたよ。――先ほどは上手くいきませんでしたが」
「貴方には才能が無いもの」
「簡単に手玉に取れると思ってたのですか?」
天音殿はその問いには答えず、私とは距離を取りつつ、すべすべした木の幹に寄りかかった。ちらりとこちらに侮蔑を込めた視線を寄越す。
「実際、そうでしたわ。貴方のへの狂信的で鬱屈とした思いがなければ、あっさり壊せましたのに。まぁ、元々、壊れているものを壊そうなんてどだい無理な話でしたわね」
「私はただ単純なだけですよ。――それで一体何の様でここに来たのです? よもや、私を助けに来た訳でもないでしょうに」
「残念ながら、その通りなんですわ。その上、もう暫く貴方と一緒にいなければならないんですの」
天音殿はやけに悲劇的な口ぶりでそう言い、首をゆるゆると左右に振った。ほとほと嫌気がさしているとでも言いたげだが、それはこちらも同じである。先ほどまでの浮ついた気持ちが、この先の展開を想像してすとんと地に落ちた。
「その理由は教えていただけるんですよね?」
「えぇえぇ、教えたくはないですわ。でも、面倒ごとになるのは目に見えていますもの。仕様が無いので、言わせて貰いますと――」
彼女は普段のにたにた笑いも何処へやら、きっと鋭い目つきでこちらを見た。
「は貴方のあの行いに対して非常に立腹していますわ。だからといって、腹立たしいことに貴方を見捨てる踏ん切りはつかないようで。ですので、私に貴方を保護するように頼んだのですわ」
「どうして、殿自身が来て」
「確かに今はの任務のほうが大切ですし、裏方の私の出番は当分ないけれども――貴方の世話を甲斐甲斐しく見ている心の余裕はないんですの。ということで、貴方は貴方の本来いるべき場所に戻ってもらいますわ」
殿から告げられるそれと、天音殿から聞かされるそれとは、同じ意味のはずなのに後者のほうが非常に不快に感じられた。
「私が大人しく応じると思っていますか」
「そうせざるを得ないわ。がそれを望んでますもの」
反射的にぴくりと手が動く。殿は今までだって私に上田に戻るように言ってきたのだ。今更天音殿に言われなくても、彼女の意思ぐらい知っている。いぶかしむ私の心を見透かしたように、彼女は面倒くさそうに口を開く。
「はいたく貴方に対して怒っていますけれど、貴方のことを見放した訳ではありませんの。ただ、今は貴方のせいで貴方に構っている暇はないので、一番安全な場所にいて欲しいと、そういうことですわ。異論があっても言わなくて結構。聞くつもりはありませんので」
天音殿はつかつかと歩みよって来た。私を冷めた目で見下ろし、何を思ったか人差し指で上を指す。その途端に、ぐいと肩を持ち上げられた。まるで見えない巨人に引き上げられたような感覚で、両肩はじんじんと痛んだ。
無理やり立たされた私を一瞥して、天音殿は紫の袖を翻して歩き出す。それに合わせて、私の両足も勝手に動き始めた。抗議しようにも顎がくっついて動かない。上田に向かうにしては、その方向から遠ざかっているような気がするし、そもそも町とは反対方向に向かっていた。
黙々と足を動かすしかなく、いつまでこの行軍が続くのかと憂鬱になっていると、不意に天音殿が立ち止まった。
「あれですわ」
天音殿がすっと指差した方向には、人一人が十分に横になれるほどの大きさ木箱が置いてあった。この鬱蒼とした森に似合わずやけに綺麗で、置かれて間もないものであることは用意に理解出来た。嫌な予感がした。
「それで、私にどうしろと?」
「あそこに入っていただきますわ」
さも当然といわんばかりに、天音殿は侮蔑した視線をこちらに投げた。私も同じくらいの呆れを込めてでため息を吐いた。あんな棺桶同然の箱に詰め込まれたいとは思わない。彼女はともかく、それが普通の人間の考え方だろう。
「上田じゃなくて常世に行けと言うことですか」
「あら、どちらも貴方が元いた場所よ」
「記憶をそのまま持って転生出来るならいいんですけどね。そういう方法あったりしないんですか?」
天音殿は、私の問いを聞かなかったことにしたようだった。代わりに、私の目をしっかりと見据えて木箱を手で差ししめす。再び足が勝手に動き出した。今更抵抗する気はなかった。天音殿は私に対して良い気持ちは抱いていないが、明確な敵意をむき出しにもしていない。殿のことがあるだろうから、死ぬことはないだろうし、彼女の記憶を失うこともないだろう。そう踏んで、大人しく棺に横たわった。硬く冷たい板に寝転がり、生い茂る木々の隙間から覗く夜空をぼんやりと眺めた。今、殿は一体何をしているのだろうか。彼女は何時ごろ私に会いに来てくれるのだろうか。いや、そもそも迎えに来てくれるのか。焦りと不安で飛び起きようとしたのだが、体は頑として動こうとしない。舌打ちしようにも、下の根すら石のように動かなかった。目だけを動かして、天音殿の姿を探す。不意に顔に影がかかった。天音殿が木の蓋を被せようとしていたのだ。彼女の興味をこちらにひこうと思っても、金縛りにあった己の体はぴくりともしない。なんだか、天音殿の様子が酷く楽しそうで、腹立たしいやらそら恐ろしいやらで、心がざわつく。体と心の不一致が、より一層焦りを煽り立てたが、箱と蓋との隙間から覗く白い指がするりと消えるのを見ているしかなかった。ばたんとやけに響く音で蓋は閉まり、完全な暗闇となる。耳をそばだててみても、棺に土をかける音すらしなかった。