朝日が木立の間を縫って、地面に差し込む。太陽の光に晒されながらも、眼下に広がる炎は褪せては見えなかった。しかし、それが収まるのも時間の問題だろう。遠くに聞こえる喧騒を背にして、私は掘っ立て小屋へと引っ込んだ。
本能寺に程近い大文字山の中腹に、崩れかけた小屋があった。温かな日差しが降り注ぐ屋根と、爽やかな風を素通しする壁に囲まれた、最早物置にもならない山小屋は殿が用意した場所であった。殿が用事を済ませる間、私の隠れ場所としてここが指定された。つまるところ、本能寺に火が放たれるのをここからぼんやり見ているようにと言われていたのだ。
私はその言いつけを破った。何としてでも、彼女の仕事を終えさせる訳にはいかなかった。それは即ち、別れを意味するからだ。殿が全てを終わらせて尚、私を傍に置いてくれる意味などあるだろうか。今ですら疎ましく思われているであろうに、任から自由になった彼女が私の面倒を見ることで得られる利益なんてありはしない。きっと気ままに何処かへと去ってしまう。
だから、私は懸けに出た。任務の遂行か私の命か。前者を取ったならば、私が現世にしがみつく意味はなくなる。そして、後者ならば――。
殿が私の前に立ちふさがっている光景を見た瞬間に、胸の奥底から湧き上がってきた喜びは今でもありありと思い出せた。彼女から確かに発せられていた怒気も、高揚感を抑えられるものではなかった。
殿が私を選んだ。
その事実がたまらなく嬉しくて、たちまち体がふわふわと軽くなった。しかし、それが地に落ちるのもそれほどの時間はかからなかった。殿はちらともこちらを見ることがなくなった。舞い上がった気分は、すとんと穴に落ちていった。底はまだ見えない。彼女は私に対して怒りや憎悪を向けるでもなく、ただひたすらに無関心であった。まるでそこにいないかのように振舞った。きっと、それも一時的なものだろうと自分を宥めて、彼女の後を追って本能寺を抜けた。殿の姿は見えなくなっていた。途方にくれて、どうすることも出来なくて、山小屋まで戻っては見た。後悔するには遅すぎることは理解できていた。
小屋の引き戸を閉めれば、かび臭い匂いが鼻についた。土がむき出しの床の上に、乱雑に積み上げられた木材の上に座る。板壁の隙間から差し込む陽光が眩しくて、抱えた膝の間に顔を埋めた。夜通し起きていたので、眠気が波のように襲い掛かってきた。たまらなく惨めだった。物音一つ聞こえない此処に閉じこもっていると、どんどん気は滅入っていった。果たして、己の行動は自分のためになったのであろうか。殿は私のことを許してくれるんだろうか。迎えに来てくれるであろうか。自信はなかった。ならば、此処で餓死するのもいいかもしれない――。
がりがりと何かを引っかく音が聞こえた。驚いて目を上げる。いつの間にやら、辺りは暗くなっていた。どうやら眠り込んでしまったらしい。そんなことを考えている間も、音は止まない。殿が戻ってきたのだ。戸口に立つ人物を想像して、胸躍らせながら戸を勢い良く開いた。
「殿――」
しかし、そこには誰も立ってはいなかった。暗い木立が広がるだけである。膨れ上がった心は急速に萎んでいった。音が何だったのか。そんなことは気にならず、元の位置に戻ろうと思ったその時、視界の端で黄金色の何かが揺れた。目線を下げれば、ふんわりとした金色の尻尾を持った狐が二匹、そこにいた。殿の毛並みよりも少し色素が濃い。煮詰めすぎた飴みたいな色を持ったその狐は、一匹は口元に、もう一匹は首に何かをぶら下げていた。殿からの便りだろうかと、慌ててしゃがみ込んでそれに手を伸ばす。だが、それはどう贔屓目に見ても手紙には見えないことにすぐ気がついて落胆した。一つは笹の葉に包まれた握りこぶし二つほどの大きさのもので、もう一つは竹筒である。狐は笹を縛っている紐の端を咥えて、鼻先をずいと突き出してきた。言伝ではないにしても、殿からのものなのだろう。そう考えて、包みを受け取った。もう一匹は竹筒を地面にことんと落とす。こちらをちらりと一瞥してから尻尾を一振りして、二匹は足早に立ち去った。
その姿が草陰に消えるのを見送ってから、手にした包みに視線を落とした。ずっしりとした重みのあるそれは、冷たく柔らかい。地面に転がる筒も拾ってから、手近な木材に腰掛けて紐を解いた。
「……全く優しい方なのかそうではないのか」
口からは大きなため息が零れ落ちた。膝の上に広げた笹の葉の上には、二つの不恰好な形のおにぎりがあった。最早、飯を丸めて押しつぶしただけといった豪快なおにぎりは、いかにも殿といった感じがして微笑ましかった。だが、殿が持ってきてはくれなかったということを、すぐに思い出して気が滅入る。それでも、まだ希望はあるのだと持ち直して、おにぎりを一口食べた。ほとんど丸一日何も食べていなかったような気がする。ずっとここで落ち込んで、膝を抱えていたのだ。腹の虫はやかましく叫んで、食べ物を要求している。自分の人間らしさに失望しつつも、しかし本能には逆らえなかった。
「ご馳走様でした」
おにぎりはあっという間に胃に収まってしまったし、竹筒に入ってた水だってすぐに無くなってしまった。標準よりも大きかったとはいえ、十八の男にとって満足出来る量とは言えなかった。むしろ、より一層空腹を強調するようで、ひもじさは募るばかりだった。しかし、他に食べるものはない。こうも暗くては、自分で食料を取りにいくのも危険だ。
これ以上、体力を浪費する前に寝てしまったほうがいい。そう判断して、手ごろな木を枕に寝転がる。だが、半日以上を寝て過ごしたためか、目ははっきりと冴えていた。暫くは空腹を抱えて、目を瞑ってはみたものの、一向に意識は淀まない。どれだけそうしていたのか、体のあちこちが痛み始めた頃に、私は遂に寝ることを諦めた。散歩にでも行こうかと、小屋から一歩外に出た。
寝静まった森には、風に揺られてさざめく葉の音しかしない。このように静かな森に佇んでいると、殿と初めて会った日の事が思い出された。もし、あの時、あの場に殿が来てくれなければ、私に情けをかけてくれなければ、私はきっとここにはいないのだろう。運命というのは真に奇怪なものだと改めて思ったところで、殿は運命という言葉が嫌いなことを思い出した。
特に目的地がある訳でもないので、山頂へと向かう。槍でもあれば鍛錬が出来たのだが、生憎小屋のどこにも愛槍は見当たらなかった。獣道すらない山を歩く。小さな頃から時間、天候、地形関係なく連れまわされたお陰で、大して苦にも思わない。それでも、若干息が上がってきた頃にようやく、山の天辺と思われるところに着いた。とはいえ、開けている訳でもなく、木々が乱立しているために見晴らしもよくない。達成感はあまりなかった。
一体自分は何をしているのか。一時の衝動だけで小屋を飛び出したことを後悔しつつ、一旦休憩しようと地面に足を投げ出した。上を向くと、木々の隙間から夜空に散らばった星が見えた。見慣れた夜空は、どこから見てもあまり違いが分からない。退屈なことこの上ない。そう思ったとき、何かの影が視界を横切った。その行方を目で追って、咄嗟に身構える。しかし、全く予期していない方向から声が聞こえてきた。
「いやぁ、どうもどうも、こんばんは。本日はお日柄も良く! お散歩か、はたまた家出でもしてきたスか、お坊ちゃん?」
鼻がぶつかるのではないかと思うほどの至近距離に、突如として顔が現れた。三日月のような口の下に低い鼻がついていて、更にその下には爛々と輝く目が合った。驚きで身を引くと、それはけたけたと楽しそうに笑い声を上げた。
「怖いんでちゅか? がくがくぶるぶるでおしっこ漏らしちゃいそうなんでちゅか? お母さーん助けてーうぇーん! って泣いてもいいんでちゅよ? まぁ、お母さんが来たところで役に立たないっスけどね、いひひ」
耳障りな声だ。きんきんと高くて、頭に響く。顔を顰めて、木に足を引っ掛けて逆さまにぶら下がるそいつを無言で睨みつけた。
「全くノリの悪い人ぅ。つーンまんないやつー。化け狐に気に入られる人間っていうから、どんな酔狂な奴かと思っていたのにぃー」
そいつは不意と視界から消えたかと思ったら、反転してすぐに戻ってきた。私の足を間に挟んで立っているそいつは、上半身を折り曲げてぐいと顔を近づけてきた。まん丸の目をくりくりと動かして、そいつは私をまじまじと見つめる。男とも女ともつかない顔立ちだ。月の裏側から来たかのような青白い顔が、闇夜にぼんやり浮かんでいる。服装は真っ黒で、闇に溶けているために、その細部は分からなかった。
「至って平々凡々のお坊ちゃんっスねぇ。目が三つある訳でも、鼻が長い訳でもない。地べたに這い蹲るのが仕事の人間さんです」
独り言のようにそいつは呟いて、地面を蹴って後ろに飛んだ。正しく、飛んだのだ。地を離れた足が、再び地面につくことはなかった。腿の辺りにある衣服の切れ目に手を突っ込んで、体をくの字にしたまま、空中に浮いている。登場の仕方も話し方も、雰囲気所作に至るまで、まるで人間らしくなかったから、大して驚きはしなかった。
「一体私に何のようです」
「うーん、言葉も普通です。つまらないー! つまらないったらつまらないーつまるつまればつまるところはーっと! 君には秘められた力があるんっスね! そう、さながら体に古の魔物が巣食っていながらも封印によってそいつを押さえ込んでいる、物語の主人公のように! そういう場合は、大抵主役が死にそうになるか髪が天まで届きそうになった時に、封印が解けちゃうもんっスよね。それがセオリーだもン。ってことで、手っ取り早く死んでくださいなっと!」
全身にぶわっと鳥肌が立つ。気味が悪い。気色が悪い。逃げたい。逃げなければ。そう思ったし、そうしようとした。しかし、そいつの行動を認識出来たのは、指先が首筋に触れたのと同時だった。
「おっと、冗談冗談! 自分はコマンド命大事にって感じなんで! だから、そうカリカリしないでくンださいよぅ、裏切り者さん」
「あらあら、私を呼び出したくてそんなことをしたんじゃなくて、嫌われ者さん?」
ねっとりとした耳に纏わりつく声とともに、おどろおどろしい雰囲気が闇から漏れ出した。声のした方を振り向くと、一人の女性が月光の元に進んでくるところであった。天音殿だ。彼女の笑みは、普段の数倍胡散臭さが増している。化け物同士が、まるで爽やかな挨拶をするかのようににっこりと微笑み合っている。不気味なことこの上ない。肌寒くて、寂しくて仕方が無かった。
「それはさておき、件の彼女はいずこにどこに?」
「鳥頭に教えて差し上げるても、徒労に終わりますわ。三歩歩いたら忘れてしまうのでしょう?」
「大丈夫っスよ。自分は獣じゃないんで、穢れた地面には降りないっスから」
「それでも、貴方からすれば、獣のほうが潔いわ。さぁ、長話はここまでにして。巣へとお帰りなさいな」
天音殿は追い払うかのような動作をした。その手の動きに合わせて、突風が舞い上がった。斬り付けるように鋭い風に、ともすれば体を攫っていかれそうになった。慌てて顔を伏せて体勢を低くして、近くにある木の根に咄嗟に掴まった。木々のざわめきが収まった頃に、恐る恐る顔を上げると随分と視界がすっきりとしていた。至って、普通の森がそこにはあった。不思議な物体が浮いているなんてことはない。では、先程まであったそれは何処に行ったのか。辺りを見回してみるのだが、初めからそんなものはいなかったとでも言うかのように木々は平然としていた。
「全く、貴方も落ち着きのない人ですわね」
どうして、風はこの女まで攫ってくれなかったのか。振り返りながら、そう心の中で毒づく。彼女が起こした風で、彼女自身が被害を受けることなど起こりえないだろうが、そう思ってしまった。まるでそれを見抜いたかのように、天音殿はくすくすと笑い声を漏らす。
「何か言うべきことがあるんじゃなくて?」
「――助けていただき、有難うございました。それで、殿は?」
「教えてあげないわ。その必要がないもの」
天音殿は、口元に浮かべた笑みを一層深くした。どう食い下がっても、彼女は教えてくれないだろう。私がそう思っているように、彼女も私のことを嫌っているらしい。互いが互いを嫉妬しあっている。ただし、その予想には彼女が人間的思考を持っているなら、という前提がつくが。
「そうですか。では、これで」
「あら、貴方が向かうべき場所はそこじゃないわ。あっち」
彼女は東のほうを指差した。殿のそれよりもずっと華奢で、おぼろげな指先の輪郭は、やはり彼女は現世の存在とはかけ離れたものに見せていた。
天音殿の言いたいことを理解して、ぎゅうと眉間に皺が寄る。そんな子供染みた行動は彼女を喜ばせるだけだと理解しているのだが、そうしてしまった。彼女はにたにた笑いを崩さず、精一杯慈愛に満ちた言葉を投げかけようとしているようだった。
「何も深く悩む必要は無いわ。何せ、こうなった原因は分かっているんですもの。誰の、どんな行動が、事を大きくしたのか。貴方はその答えを知っていますわ。解のある問に頭を悩ませるなんて、それこそ鳥でもやらないわ。あぁ、でも、鳥は忘れてしまいますわね。いっそ、全てを無かったことに出来るのなら、幸せなのでしょうけれど」
天音殿は徐に私のほうへと手を伸ばしてきた。逃げようとしても、体が石のように固まってしまい言うことを聞いてくれない。何をするつもりなのかは分からないが、私にとって喜ばしいことではないのは明白だった。