斬っても斬っても数が減らない。どこから湧いて出てくるのか、たくさんの将兵が立ちふさがり、既に満身創痕であった。それでも必死で刃を振るう。全ては、あのお方、信長様のために――。
濃姫様とは別れることにした。戦力分散の下策だが、信長様の行方が分からない以上、そちらのほうが探索効率は良い。しかし、何分、一人でこの量の相手と戦うのはきつかった。途中、長年同じく信長様に仕えていた朋輩の息絶えた姿を見かけることもあったが、そのことにはいちいち構っていられない。
上がる息を宥めようと一旦足を止め、数回深呼吸をする。その気の緩みがいけなかった。気付くと、すぐそこに突きの形で槍を構えた男がいた。咄嗟に避けようとしたが、疲れのために足がもつれて転んでしまう。ならばと、刀で防ごうとするよりも早く男が動いていた。
槍の切っ先が、ぎらりと獣の目のように光る。来るべき痛みに身構えていると、自分の真後ろで苦悶のうめき声が聞こえた。咄嗟に振り向くと、温かいものが顔中に降りかかった。反射的に目を瞑りすぐさま顔を拭うと、丁度喉を斬られ血しぶきを上げている男が一人地面に伏せるところであった。
「危ないところでしたね」
頭上から場にそぐわない和やかな声が聞こえてきた。槍を持つ男は、顔にかかった血を拭おうともせず、不気味なほどに爽やかな笑顔を浮かべている。あの女の連れであった。
「有難うございました」
「いえいえ、礼には及びませんよ。ところで、殿の行方を知りませんか?」
それが私を助けた理由だとすぐに悟ることが出来た。とはつまりあの女の名前なのだろう。男はにこにこと人の良い笑みを浮かべて、私の返事を待っている。紅の上等な鎧を身に着けた男は、まるでどこかの大名のご子息のようだった。
「いえ、存じませぬ」
途端に男は無表情になった。先ほどまでとのあまりの落差に、生唾を飲み込む。刀を握る手に力が篭った。男は「そうですか」と呟くと、興味をなくしたようにふいと視線を外して、足を一歩踏み出した。しかし、動かない。
「どうか、致しましたか」
「協力せぬか? そなたは信長を探しているのであろう? なれば、殿と目的は同じ。つまり、私とも同様ということだ。私はここの地理に疎い。そなたは、体力がもうない。悪い条件ではないと思うが」
やはり、あの女は――。あの時に殺しておけばよかったと強く後悔した。唇を噛み締めすぎて、血の味が口内に広がる。怒りで周りが見えていなかった。だから、自分の首先に槍が突きつけられたことにもすぐには気がつけなかった。
男を睨みつける。しかし、男の読みどおり体力がほとんど残っていない私にとって、それはただの強がりに過ぎなかった。男は眉一つ動かさず、涼しい顔だ。
「一体これはどういうことです」
「何もするなとの御達しだが――しかし、間違いなくそなたは殿の邪魔になる。信長は死なねばならぬ。協力を得られぬなら、後顧の憂いを断つまでだ」
男の瞳は狂気的な色を帯びて爛々と輝いている。ここで肯定以外の言葉を発したら、微塵の躊躇もなく首を跳ね飛ばされるだろう。ここで拒否して死ぬか、あの女と男を合流させるか。私は覚悟を決めて、男の目をしっかりと見据えた。
「分かりました、その案、乗りましょう」
「賢明な判断だな」
そう言って男はこちらに手を差し出した。それを掴むと、ぐいと強い力で引っ張られ立たされる。男は私が自立できることを確認すると、挑発的な視線を投げてくる。
「それで、信長はどこにいると考えているのだ?」
まるで、その程度分かって当然だろうとでも言いたげだ。貴方だって置いていかれた身でしょうに。その言葉を飲み込んで「本堂ではないかと」とだけ答えた。男の興味のなさそうな素っ気無い返事を背に歩き出した。あの女が信長様を殺すようなことを、この男は仄めかしていた。一刻も早く信長様の元へ参じねばと思う一方で、歩調を合わせてついてくる男をそっと伺う。まるで見知らぬ土地を散策しているような、無邪気な――この場においては異常な顔つきで、辺りを見回していた。この男も得体が知れなかった。彼女は配下のものであろう彼には何もしないでいるように命令されたらしい。そのことも奇怪だったが、男は全く躊躇することなく私を殺そうとした。ならば、あの女の手を煩わせまいと、信長様のことを殺そうとするのではないか。疑念がふつふつと胸に湧き上がってくる。出来ることならば、隙をついて殺せればいいのだが。その時、ふいに男がこちらを見た。視線がぶつかった。
「聡いものはさぞかし生き辛いだろう」
「そういう貴方はどうなのですか」
「私は盲聾者だからな。塀に囲まれた狭い世界で生きるのはとても楽だ」
言葉をそのまま受け取るのならば、なんと愚かな人であろうか。一点に留まり続け、外のあらゆることなど気付かず、安定した生活を求める――信長様が最も唾棄する惰生そのものであった。しかし、男はとてもそうとは思えなかった。この男は人として大切なものが、中心にあるべきものが歪んでいる。あの女の行動は真意も意図も理解出来ないが、それでもその感情は理解出来るのだ。しかし、この男は行動理由は明白にも関らず、何を思っているのかは全く読めなかった。一見、単純そうなのであるが、深く踏み込んでみると右も左も分からなくなってしまう。あの女よりも厄介な存在だった。
「それにしても――随分と信長は嫌われているようだな」
襲い掛かってきた雑兵を、まるで毎朝の習慣でそうしているかのように涼しい顔で切り捨てながら、男はぼそっと呟いた。亡骸には置物か何かのように目も触れず、何も思わず、何も感じていないようだった。
男の戦い方は、曲線的だった。軌道が読みづらいのだ。思いもかけない方向に、槍は目にも止まらぬ速さで振り下ろされた。流れるような動作で、息もつかせぬ攻撃を繰り出す。まともに相手にするには、厄介な人物だった。この状況下で、この男を殺すのは非常に難しいことに思えた。ただ、この男が攻撃を受け止めはしないのが気にかかった。そうせざるを得ない時は、僅かに顔を顰めてもいた。その所作はどこか右腕を庇っているように見えて、そこが付け入る隙であろうかと考える。しかし、数多の屍を踏み越えてきた男の顔に疲れの影は見えない。やはり、勝ちの目は薄い。そう判断して、今は何もせずにいた。
「信長様は……それを楽しまれている風でもありましたが」
「全く、煩わしい性格だな」
男はそう言い、言葉を切った。不意に東の空を見上げる。その視線の先を見上げれば、空が仄かに明るくなっている。しかし、それは夜明けのそれとは似ても似つかなかった。灰色の煙がもうもうと立ち込め、その腹を橙色の光がちらちらと照らし出していた。火を放ったのだとすぐに理解する。数量、士気共に圧倒的に有利な明智軍が、味方にも被害が及ぶ火計などするであろうか。それよりも、せめて少しでも相手に痛手を負わせようとこちら側が火をつけたのだと考えるほうが妥当だ。そして、下のものが許可なくそんなことをするとは思えない。ならば、あの火元にいるのは、信長様だろうか。位置も丁度、本堂に近い。
同様のことを男も考えたらしい。男はこちらを振り返ったので、小さく頷いて答えた。男は、火の手を見上げ、そして後はもうこちらを振り向くことはなかった。足早に本堂に向かって駆け出していくその足は浮かれて見えた。呆然と男の姿が小さくなっていくのを見送り、曲がり角の向こうに消えてようやく正気を取り戻した。
私はもう用済みということか。男のあまりに無礼な仕打ちに、最早呆れを通り越して沸々と怒りが湧いてきた。しかし、今はそんな感情に囚われている場合ではない。遅れを取った分、一刻も早く信長様のところに向かい、あの方をお助けせねば。幸いにして、男が立ちふさがるものを片っ端から切り伏せていってくれていったために、体力は戻っていた。
角を曲がる。整備された石畳が向かう先は、本堂の入り口である。そこに、刀を手にし悠然と立つ信長様の姿があった。信長様は降りかかる火の粉を物ともせず、口元に笑みをたたえている。そして、その前に立つのは、桔梗の紋を背負った光秀様であった。風に黒髪をなびかせる彼の横顔は、凛とした決意に満ちていた。女の姿は、ない。
とにかく信長様の盾とならなくては。その一心で、彼のもとへと物陰から飛び出した。しかし、その私の腕を掴む者がいた。その冷たい指先から真っ先に連想したのは、白装束であった。
「何を」
しかし、振り向いた私の視線の先にあったのは、乱れた髪と引き結ばされた唇であった。濃姫様は、ゆるゆると首を横に振る。その意図が分からない。
「あの人の邪魔をしては、駄目よ」
「邪魔? 一体、何が邪魔だというのですか! 信長様を守らなくては――」
「あの人は、自身の命を一番に思っているの?」
濃姫様の揺れる瞳に、束の間釘付けになる。すぐには頷けなく、そしてそのことを激しく後悔した。私は信長様の小姓だ。その私の第一の任務は、身を挺してでも彼を守ること。
――本当にそうなのか?
心の中で、私が私に問いかけた。自分の考えた考えを主に押し付けるのが、本当に従者らしい振る舞いなのか。いや、そもそも、生きる理由も死ぬ理由も信長様に託すことを、彼は望んでいるだろうか。許してくれるのだろうか。疑念がぐるぐると頭の中を旋回する。何を考え、何を信じればいいのか。地面が音を立てて崩れ去っていくような気がした。
不穏な想像に飲み込まれそうになった時、激しい金属音が耳をついた。信長様と光秀様は、火花が散るほどに刃を交し合っていた。舞うように戦う二人の姿は、轟々と燃え盛る炎を背にして、まるで影絵のように見えた。その芸術的な光景を、ただただ見ていることしか出来なかった。
炎に照らされた信長様の顔は酷く楽しそうであった。待ち望んでいたものに、ようやく出会えたかのような、僅かに童心を覗かせた表情だった。
火の勢いは益々激しくなっていく。本堂前には樹木も多く、それらに燃え移っていた。気がつけば、周りを火で囲まれている。頬を撫でる風は熱い。それでも、二人は全くそのことを気にせず、手を緩めることはなかった。このままでは、どちらにしろ逃げ道が塞がり、死んでしまうのではないか。信長様の退却路をどのようにして開けばいいのか。
私は信長様の勝利を信じていた。濃姫様の言うとおり、あそこに割ってはいることを信長様は喜ばないであろうということは、分かっていた。何も出来ない私は、あの方を信じることしか出来なかった。
光秀様の顔が、疲れのためか僅かに歪む。しかし、攻撃の手はより一層激しさを増していく。信長様は目を細め、しっかりとその剣戟を受け止めた。
そして、決着はついた。
光秀様が振り下ろした刀は、信長様の刀を弾き飛ばし――あの方の体を斜めに斬りつけた。
信長様は糸が切れた操り人形のように力を失い、膝を地面につく。そして、ゆっくりとその体は倒れていく。胃に氷の塊を落とされたかと思った。全身が総毛立ち、どこも動かせず何も考えられず、その様を見ているしかない。
刹那、真横を冷たい旋風が通り過ぎた。それは光とまごうものだったが、確かに実体を持ったものであり、はためく裾を目にしてすぐさまに何であるかを悟る。それと同時に、体が動いていた。刀を抜き、駆ける。この瞬間を――信長様が事切れる瞬間を、あの女は狙っていたのだ。何をするつもりかは知らぬが、しかし、あの方の遺体には指一本触れさせるつもりはなかった。
呆然と佇む光秀様は、それでも女の存在に気がつくと刀を構えた。よもや、ここで共闘することになるとは思っていなかった。しかし、有難い。私も加戦しようとしたが、女のところにたどり着く前に、叫び声が聞こえてきた。濃姫様だ。
「後ろよ、蘭丸!」
反射的に背後を見れば、銀色のものが頬を掠めた。咄嗟にしゃがみ込む。間髪をいれずに水平に振られたそれは、高く結った私の髪の毛の先を切った。体勢を立て直す前に、蹴りが飛んできた。胸を強かに打ちつけられ、後ろに転がる。息が詰まった。かすむ視界の中で、あの男が槍を振り仰ぐのが見えた。男が、それを振り下ろす。しかし、男は槍の切っ先が私に触れる前に、姿を消した。代わりに視界に飛び込んできたのは、濃姫様だった。息を切らせて、突き飛ばした男を睨みつけている。私はすぐさま体を起こした。同じように、膝をついた男と目が合う。男は槍を落とし、右手首を押さえ込んでいた。やはり、怪我をしていたらしい。この機を逃す手はない。私は刀を構え、男に斬りかかった。
「何っ……!」
男の脳天目掛けて、振り下ろそうとした刀が空中で止まった。蹲っていた赤備えの男も代わり、白と赤を基調とした着物が目の前に立ちふさがっていた。ほっそりとした指先で刃を受け止め、女は私を見下ろした。その目には、失望の色が浮かんでいた。
「全く、お前という奴は、一体、何処まで――」
女は歯を噛み締めながらそう漏らす。最後まで言葉を続けず、女は刀を押さえていた手を離した。自重に従い、刀は落ちていくかと思いきや、それは空中で霧散して消えてしまった。女は私など眼中にないかのように、ゆらりと歩き出した。そして、その向こうに未だ地面に膝をついた男が見える。男の口元は、確かに歪な笑みを形作っていた。
何も言えなかった。女にぶつけるべき罵詈雑言の数々は、男の目に浮かぶ狂気的な色合いを見て引っ込んでしまっていた。女の後姿を見つめる男は、とても正気には見えなかった。
「何をなさるおつもりですか……!」
光秀様の戸惑いに満ちた声が、聞こえてきた。女の顔は見えないが、強張った光秀様の表情と信長様の遺体の傍に寄り添う濃姫様の悲痛に満ちた顔色はよく伺えた。女は、一歩彼らに近づく。
「人助けだ。今、お前に死なれるのは困る。この火からどうやって逃れる? お前が歯向かわないのなら、私も手を出さない」
光秀様はそれでも尚、刀を下げることはなかった。女はその様子を見て、項垂れてゆるゆると首を横に振った。そして、その後の行動は素早かった。
瞬きをしたその瞬間に女の姿は掻き消え、光秀様のすぐ後ろへと移動していた。光秀様がそのことに気がつくよりも先に、彼の肩越しに腕を伸ばして女は刀にそっと触れた。彼女が触れた部分から、刀は銀色の花弁となって散っていく。ある種幻想的なその風景に見とれてしまったのは、光秀様も同じだったらしい。女の手刀が光秀様の首筋に吸い込まれるように決まる。糸の切れた操り人形のように、それでいてやけにゆっくりとその体は倒れていった。女は光秀様を難なく受け止めた。途端に、不吉な気配がぶわりと全身を包む。全身の毛穴から汗が滲み出、心臓が跳ね上がる。それに女は気付いているのか、気付かない振りをしているのか、はたまた気にしていないのか、涼しい顔で光秀様を俵のように担ぐ。そして、濃姫様を見、未だ棒立ちだったこちらに視線を投げかけた。
「信長だったものと共にここで果てるか、それとも生き延びるかはお前達の自由だ。私の邪魔さえしなければ、好きにやってくれて構わない」
女の言葉には、嘲りも哀れみも含まれていなかった。ただ、その真っ直ぐな目だけが印象的だった。
素っ気無くそう言うと、女は私達に背を向け歩き去ろうとする。その背に、濃姫様が声をかけた。その語尾は僅かに揺れていた。
「随分、淡白なのね。あの人に拘っていたはずじゃあないの?」
「与えられた役目をこなせないものに、固執している暇はないんでな」
女は立ち止まり、振り向きもせずにそれだけを言う。そして、これ以上は答える気はないとでもいうかのように、歩みを速めた。揺れる髪をぼんやりと眺めていた男は、よろよろと立ち上がって、狐にでも憑かれたような足取りでその後を追った。あの不気味な気は、もう彼からは発せられていない。今は、先ほどの反動か、驚くほどに何の気配も感じられなかった。人本来が発する生の活気そのものが失われてしまったかのようだった。おぼつかない足取りの男を、女は気にすることはなかった。
彼らの影が炎に呑まれて見えなくなるまで、私達は呆然とそこにいることしか出来ない。轟々と音を立てて、炎は勢いを増していく。どこもかしこも、橙色に満ちていた。逃げ場はもうない。そのことは、明らかであった。
「結局、この懐剣を向ける相手はあの人でも父上でもなかったわね……」
横たわる信長様の頬にそっと触れた彼女は小さく笑みを零した。そして、濃姫様が胸元から、黒漆塗りの短刀を取り出す。鞘に収められていた鋭く尖った切っ先を、静かな眼差しで濃姫様は見つめた。その横顔には、はっきりとした決意が浮かんでいた。
濃姫様は、自分の喉元に刃の切っ先を押し当てる。鮮血が一筋首筋を伝った。
「蘭丸、今までご苦労だったわ」
そう言って、濃姫様は刃を白い喉に埋めた。高貴な紫を溢れ出る真紅が染め上げる。飛び散った血は、彼女の体を美しく彩った。信長様に寄り添うように倒れた彼女は、もうぴくりとも動かない。
あっさりとしていた。信長様が死に、そして濃姫様もこの世を去った。あっけなく、自分が拠所としていた場所は失われた。そして、そのことに対して、不思議と何の感情も湧き上がってはこなかった。自分の中の時が止まってしまったかのようだった。あるいは、本当にそうなのかもしれない。己の存在意義の喪失と共に、存在すら消えてしまったのか。
物言わぬ二人に近づく。炎はやがて彼らの体も飲み込むだろう。そして、私の体も。その時と安穏と待つのはじれったい。きっと、信長様は私を待ってくれているはずだ。その傍には、濃姫様も寄り添っていることだろう。いつもと変わらない日常。それを手に入れるために、私がすべきことは火なんて見なくても明らかだった。
「今、蘭も参ります――」
熱気に煽られるこの世界で、白銀の刃はひんやりとして心地よかった。腹の中に入ってくるそれは、すっぱりと自分の体を裂いていく。背骨一本では体を分かれた体を支えきれず、地面に倒れこんだ。目の前に広がる夜空の星の瞬きは、とても綺麗だった。あんなにも暑かった空気は、ゆっくりと、しかし確実に熱を失っていた。意識が混濁し、感覚が鈍くなっていく。あの女に与えられた眠りにそっくりだった。だからなのか、恐怖感はない。静かな心を抱いて、目を瞑る。きっと、もう少しで、信長様にまた出会えるのだ。何も恐くはなかった――。