意識が急浮上した。
 見る見るうちに視界が開け、体も軽くなっていく。一瞬、自分が誰であったかも分からなかったが、訳も分からず飛び起きた時には全て思い出していた。あの後味の悪い眠りへの入り方の割りに、目覚めは爽快ですっきりとしていた。記憶は昨夜と直結している。夢すら見ない深い夢のせいで、今の時間が見当もつかず布団から慌てて抜け出す。篭手や臑当も既につけられており、しかしそのままで寝ていたのならば感じるであろう体の痛みは全くなかった。枕元に置いてあった、長刀真剣カムドを背負って、室を飛び出した。
 日はまだ昇っていない。暗闇が辺りを支配しているが、同様に夜の支配者であるはずの静寂は姿を消していた。耳を澄ませば、遠くで喧騒が聞こえる。北斗七星の方向から聞こえる物音は、それだけで不吉な予感を抱かせた。あの星座は破軍星とも呼ばれ、それを背にして戦えば必ず勝つと言われている。逆に、それに向かって戦えば必ず負ける、とも。
 信長様にすぐに報告せねば――。
 その一心で、あの方が休んでいるであろう部屋へと走り出した。寺の内部は、ひっそりとしていた。警護の小姓数人とすれ違っただけである。眠そうな目をした彼らは、私を不思議そうな顔で見送った。
 信長様の部屋の番をしていた者が、目を丸くしているのを尻目に、襖越しに声をかける。息を吸い込んだその刹那、襖がすいと横に動いた。白い浴衣を身につけ、眼光を鋭く光らせる信長様がそこには立っていた。部屋の中央に敷かれた布団では、濃姫様が体を起こしこちらの様子を伺っていた。


「お蘭、この物音はなんだ」

「まだ分かっておりませんが――あの女が、何かを企んでいるようです! 信長様、ここはお逃げになったほうが」

「外を見てまいれ。事実確認をするのだ」

「はっ!」


 頭を下げ、足早にその場を後にする。控えの小姓に何やら言っているらしい信長様のその声色は平時と変わりなかった。
 寺から出て足音を忍ばせ、塀の向こうの様子を伺う。そこには多くの旗が見える。そこに印された紋は見覚えのあるものだった。白の旗に黒の桔梗が華々しく咲いていた。その紋の意味するところに、驚愕すると共に同時にどこか諦観している自分も確かに存在していた。


「光秀様――」


 予兆めいたものは確かにあった。元々、信長様の苛烈な行いには口には出さずとも、あまり良い思いはしていなかった。それが木津川口の戦いが終わってからというもの、より一層悩ましげな顔をするようになった。光秀様の動向を注意はしていたものの、最近はあの女の方ばかりに気を取られてしまっていた。それが、この様である。光秀様に向けるよりも先に、あの女に対して苛立ちに近い怒りを感じた。
 いつ号令がかかって、先陣が雪崩れ込まないとも限らない。不必要な感情を頭を振って追い払うと、踵を返し音を立てないように素早く信長様のところに戻った。
 信長様は既に、烏の羽のような黒と高貴さを感じさせる紫の戦装束を身に着けていた。血を吸ったかのような赤色の刀が、月光を反射した。


「本能寺は既に敵勢に包囲されており、多くの旗が見えております。紋は――桔梗です。信長様、ここは蘭が食い止めます。どうか、お逃げになってください!」

「是非に及ばず」


 信長様はさも楽しそうな笑いを含んだ声で、一言そう言った。外はにわかに騒がしくなってきた。寺の者も全て起きだし、小姓達も刀を手に走り回る音がする。信長様もそこに加わるべく、歩き出した。慌ててその背を追おうとした私の後ろで、するすると襖が開く音した。振り返ると、そこには信長様と同じ紫色の着物を身に纏った濃姫様がいた。彼女の肌の白さが闇の中で際立っている。
 先ほどまでは寝巻きであったはずなのに、この僅かな時間に二人とも準備を整えてしまっていたようだ。そのようなことが出来るはずもない。そう思って、あの影を探す。それは、予想外にあっさりと見つかった。


「死に際は華々しく、だろう?」


 唇を引き結んだ濃姫様の後ろから、ひょっこりと女の顔が覗く。女は気難しそうに顔を顰めていた。


「貴様――! 何を企んでいる!」

「なーんにも。私だって今回ばかりは、不満に思ってるんだ。お互い、被害者という訳だよ。まぁ、被害の程度に差はあるがな」

「ふざけたことを! 貴様は」

「蘭丸、あの人のところに行くわよ」


 私の言葉を遮り、濃姫様はきびきびと歩き出した。女は一瞬真顔に戻り、目を細めて濃姫様を見送る。この女を詰問したところで、事態が好転することはないのだろう。濃姫様の後を追って、女に背を向けようとした時に、あの青年が女の後ろに立っていたことに気付く。まるで宴会の最中のような、そんな楽しそうな無邪気な笑みを、男は浮かべていた。背筋がぞっと寒くなる。女も男も気が狂っている。そう感じた。言動も行動も理解が出来ない。苛立ちが徐々に恐怖に侵食されていく。あれは本当にただの狐なのか。もしや、死神か何かでは――いや、それよりももっと性質の悪いものでは。


「蘭丸」


 濃姫様の声が混乱した脳内にすっと入ってきた。そのお陰で正気を取り戻す。彼らの狂気にあてられてしまっていたのか、気がつくと外はより一層騒がしくなっていた。その中で、濃姫様の凛とした声が響く。


「余計なことを考える必要はないわ。あの人を守る。それだけでいいのよ」

「――はいっ!」


 そうして、私達は鉄の匂いとうめき声に満ちた屋外へと一歩足を踏み出した。