「迷惑をかけたな」
日が落ちて大分経った。そろそろ仮眠でも取ろうかと、自分の室へと向かう最中、不意にそんな声がかかった。死角からの呼びかけにようやく慣れてきたようで、以前ほど緊張することはない。後ろを振りかえれば、月明かりを反射する飴色の髪が見えた。
「いえ、お気になさらず。お連れの方はもう寝たのですか?」
「あぁ、寝たよ。――いや、寝かせた、か? 少なくとも、明日の朝まではぐっすりだ」
縁側に腰掛け一人月見酒をしている彼女は、無邪気にそう言う。はたしてどんな手段を使ったのか、気になるところではあるが、知らないほうがいいこともあるだろう。そう判断して、ぽんぽんと自分の隣を叩く女の求めるとおりにそこに座った。
「面倒な奴に絡まれたと内心苦い顔をしているんだろう」
「いえ、そのようなことは――」
実際のところはその通りだったので、苦笑するしかない。女も私と似たような笑みを浮かべながら、杯をこちらに勧めてきたがそれは丁重に断った。酒に弱くはないが、何が起こるかは分からない以上、酔うのは得策とは思えなかった。
「良い風だな」
風になびく髪を撫で付けながら、女は欠けた月を眺めて目を細めた。その目の奥底の輝きは、肉食獣のそれに似ている。ぞくりと背中の産毛が逆立つのがわかった。和やかな雰囲気が一変した。
「何をお考えですか」
「色々と。失敗は多分一回しか出来ないだろうし――そもそも失敗を前提としているところが駄目か。まぁ、異分子がいるからそう思ってしまうのだが。ふむ、つまり多少なりとも緊張しているようだ」
女は芝居がかった仕草で顎に手をあて、まるで私などいないかのように呟く。その言葉に含まれる不吉な何かは、私を焦らせるに十分な効能を持っていた。彼女が何を考え、何を企んでいるのか。そして、これから何が起こるのか。女が明言した訳ではないが、良くないことが起こるであろう事は明白であった。女は呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべて言葉を続ける。
「私も随分と丸くなったものだ。母性なぞ母の腹の中に置いてきたと思ったが」
「……あの青年は貴方の御子なのですか?」
女は真顔でじっとこちらを見てきた。切れ長の涼やかな目元や引き締まった形の良いすっきりとした唇、ともすれば存在を忘れてしまいそうな鼻のおかげで、目力がより一層強調されていた。身のまとう妖しさも一種の装飾品のようである。それらが弾けて、からからと小気味の良い笑いが表れた。
「それはないな。子などいたらこんなところにいるものか。大人しく里に引っ込んでるさ。――第一あんな愚直な妖がいるものか。仮にいたとして、一族以外のものの面倒を誰が見るか。無論、あやつは同族ではないしな」
「あの、人間というのも種族に入ると思うのですが」
「一理ある。無視できないほどに、人間の勢力は広範囲に及んでいる。しかし、なぁ――人間は別だよ別。反抗できるはずもないし、元々あやつがああいう境遇に陥ったのも私のせいだからな。面倒でも致し方ない」
言葉のわりに、彼女の表情は和やかだった。女は杯をぐいとあおって、並々と注がれていた酒を一気に飲み干す。それから、ふらりと立ち上がった。月を背にして、女は笑った。
「私の身の上話は必要ないな。それよりも、蘭丸。今日はゆっくりと休んだほうがいい。気力を高め、体力を蓄え、明日に備えるといい」
やはり、明日、何かが起きる。それを問いただそうと、私も立ち上がろうとした。
しかし、意思とは反して両手両足が動かせない。まるで鉛がついているかのようだった。何がされたのかと訳も分からず、女の顔を睨みつける。その視界もぼやけてきた。そのうち、瞼もだんだんと重くなり、それに合わせて意識も混濁してくる。まるで身動きが取れず溺れていく様は、海に突き落とされたようだった。もはや指一本すら動かせない。強制的な眠気に抗う術を、私は持っていなかった。
「すまんが、他のものに知らされては困るのでな」
女のその声だけは、まどろむ意識の中で唯一はっきりと聞こえた。そして、それが最後の外界からの刺激であった。