朝廷の遣いとしてやってきた公家の方々に茶器を披露するなどをしていたら、その日はいつの間にか日が暮れていた。やはり女はちらりとも姿を現さなかった。代わりに御公家様にと用意していた茶菓子が、いつの間にか無くなっていただけで、他におかしなことは何も起こらなかった。空になっている皿を見て、女の不躾さには思わず憤りの息を漏らしてしまった。


「蘭丸、彼女は結局来なかったの?」


 ある一室で茶器を木箱に戻していると、そんな言葉とともに濃姫様が襖を開けて姿を現した。縦長の長方形の枠の中に佇む、一人の女性。その奥では桔梗の花が風に揺られている。一つの絵画のようであった。その光景に一瞬言葉を返せずにいたが、すぐに我を取り戻して返事をする。


「はい。信長様は何か仰ってましたか?」


 濃姫様はゆるゆると首を横に振った。あの女の考えはよく分からないが、信長様の考えもよく分からない。あのように不遜な態度を取り続けられて、不愉快に思わないはずがない。元々感情を表に出さない方ではあるが、それでもここまで読めないことはなかった。


「あの人は、変わったわね」

「やはり、あの者のせいでしょうか」

「そうね。妖怪風情に躍らせられる人ではないと思うのだけれど」


 濃姫様は髪をかき上げて、悩ましげに吐息を零した。そこには、あの女とは別種の艶めかしさがあった。一抹の気まずさを覚えて、目の焦点を彼女の向こうの緑に向ける。


「あ」


 ふわりと白い布が舞ったかと思えば、そこにはあの女の姿があった。その隣には、妙に機嫌の良さそうな青年を従えている。日に焼けた肌に覆われた体は、体格がよく如何にも用心棒然としていた。子供というにはあまりに成長しすぎており、姉弟や愛人に見えなくもなかった。濃紺の着物を身に纏った彼とは対照的に、女は若干気まずそうな面持ちで、こちらに近づいてくる。そのことに気がついた濃姫様がゆっくりと振り返った。


「あら、随分と暢気な方なのね」

「元々茶会に出る気などない。そもそも儀礼も何も分からないからな」

「あの人は、貴方のことでそんな些細な問題気にしないと思うけれど」


 棘を含んだその言葉に、誰よりも敏感に反応したのは青年だった。その精悍な顔を途端に歪めて、女の腕を掴む。女はといえば、見るからに狼狽したように視線を彷徨わせた。


「相変わらず、貴方は人を魅了するのが得意なようですね」

「魅力的に化けないで何に化けるというんだ。それでこそ、妖狐だろう。本能だ」


 青年が握る女の腕は、ただでさえ白いのにより一層血色を失っていく。どれほどの力が込められているのであろう。しかし、女は顔を歪めるでもなく、呆れたように青年を一瞥すると、何もなかったかのようにこちらに向き直った。


「連れのことは気にしてくれるな」

「どうやら子育てに失敗したようね。程度が知れるわ」

「子供も産めぬお前に言われるのは心外だなぁ」


 女は意地悪く口角を持ち上げる。嫌にねっとりとした口調だ。濃姫様の表情は見えないが、険悪な雰囲気が漂っていた。今まで傍観してしまっていたが、慌てて座敷の奥から出てきて二人の間に割ってはいる。多少の勇気が必要であった。


「あ、どうぞお上がりください。今まで気付かなくて、すみません」

「それで、その、今更で申し訳ないんだが、こちらに泊めていただけないだろうか」

「勿論構いませんよ。そちらの方も、ですよね?」


 何かあったのだろうか。それを聞くのは失礼だと思い尋ねはしなかったが、多分青年のせいなのだろうと漠然と感じる。愛想笑いを浮かべて青年のほうを見れば、彼も微笑を返してくれる。そのあどけない表情と未だ繋がったままの彼の骨ばった手はどこか不釣合いだった。女は首肯する。


「ああ。頼む」

「部屋は」

「一緒でお願いします」


 にっこりと笑顔で割って入った青年を、女は引きつった顔で見つめたが、結局は何も言わず、ただゆるゆると首を横に振るだけだった。彼女の腕の色は青紫色めいていた。