信長様は小姓を中心とした僅かな供回りと共に安土城を発った。その一行の中に、あの女の姿はない。しかし、そのことについて信長様は何も言わなかった。気付いていないということはない。むしろ、気にしていないといったほうが正しいだろう。普段と変わらぬ行軍。あの女の姿がないことに安堵するとともに、しかし必ず現れるに違いないという確信に近い予感が確かにあった。
 その日中に、京の本能寺へとたどり着いた。他に召集された軍勢を待つために、暫くはここにいる予定である。寺といっても、決して無防備ではない。本堂を改築し、堀や石垣などを新設したため、もはやそれは城塞と言っていいほどだった。ここならば、例え敵に攻め入られても篭城できるだろう。小姓といえども、当然武芸の心得がある。持ちこたえることは出来るであろう。その内に、味方軍がやってきてくれる。そうなれば、こちらのものだ。無論、敵が普通の人間であった場合の話ではあるが。
 それは信長様、濃姫様の後ろについて、彼らに用意された室へと向かう最中であった。縁側を歩きながら、ふと横に目を逸らせば、活き活きとした青葉が見える。


「遅かったな」


 神出鬼没なその声に、未だ慣れることは出来ない。濃姫様も同様のようで、僅かに目を見開いたのが分かった。ただ、信長様だけが悠然といつの間にか私達の進路に立ちふさがるように立っていた女に言葉を返す。


「うぬは如何様にここに参った」

「それを聞かれると困る――ということはないんだが、説明が面倒だ。省かせてもらおう。いつだって、経過よりも結果のほうが重要だ。何をしようと、何も残せないなら意味はない」

「うぬにしては、歯切れの悪い言葉だな」


 信長様の言葉に、女は少し眉を顰めてぽりぽりと頬を掻いた。


「言い訳染みていて情けないとは思うが――まぁ、ここに着くまで一悶着あって、少し疲れているんだ。どんな時代でも感情というものが最大の敵だからな」

「あら、じゃあ、部屋でも用意させましょうか?」

「有難いがそれは遠慮させてもらおう、奥方様。宿は別の場所にとってある。何か起こった時にでも、姿を現すさ」

「ふむ――近々、茶会を開こうと思っていたのだが?」


 信長様の言葉に、女は可笑しそうに「茶会」と呟く。まるでそんな馬鹿げたことをするのかというように鼻で笑い捨て、女は肩を竦めた。


「子守をしなきゃならんのでな」

「ならば、その子も連れて来るといい」

「大抵は子連れの狐のほうが気が立っているというのに、今は子供のほうが手に負えない状況だ。これ以上、問題ごとを増やしたくはない」


 女がここまで素の感情を表に出すのを見たのは、初めてのような気がする。困ったように眉を顰め、唇をへの字に曲げる。口から漏れる吐息は、どうやら心底から出ているらしい。


「珍妙、ぞ」

「冥土の土産だよ。死者も私と似たようなものだ。つまらない感情に左右される。酷く俗世的なものだよ。安心するといい。死んでも地獄にいるのは変わらない。特に、信長のような異端な人間にとってはな」


 肩を揺らして女は笑った。それに合わせて、信長様も笑みを返す。まるで旧友のように言葉を交わす二人であったが、その内容は殺伐としたものであった。


「うぬは信長が死すと申すか」

「そりゃあ、生きとし生けるもの、全てはやがて消え去るさ。それが変化だ、うつろいゆくものの定めだ」


 女は不敵に口角を持ち上げた。信長様の質問の意図を汲み取った上でのその答えに、信長様は眉一つ動かさず女に近づいていった。女は腕を組んで、口元の笑みはそのままに悠然と立っていた。その脇を信長様が通り抜ける刹那、女の唇が微かに動いた。何を言ったのかは定かではなかったが、信長様は足を止める。その表情は、こちらに背を向けているために見えない。信長様が言葉を返したらしく、女は目を伏せ口元を緩めた。その表情はいつになく穏やかであった。


「お濃、お蘭、往くぞ」


 信長様にそう声をかけられ、一瞬お互いの顔を見合った後に、慌てて遠ざかっていく背中を追った。女の横を通り過ぎようとしたとき、低く落ち着いた声が聞こえた。ずっと以前からその声を知っていたかのように、よく耳に馴染んだ。


「あれは、良い主だ。お前達も良い供であれ」


 咄嗟に振り向いたその先に、もう既に女の影はなかった。