「こりゃあ――」
その先の言葉を秀吉様は失ってしまったらしい。その気持ちは、私にもよく分かる。この場で発するべき言葉を、どうやら誰も持っていないらしく、不吉な沈黙だけが私達の間に流れた。
城に戻ってきた一行は、今回の獲物を改めて庭で披露することにした。障子を開け放った部屋に座る信長様の前に小姓らが獲物を並べ立てる。終始、席を同じくしていた秀吉様、光秀様、家康様があれやこれやと品定めをしているのみで、信長様は酷くつまらなさそうだった。そうして、私が最後にあの狐を並べた時だった。
力ない体が地面につくか否かという瞬間、先程まであった骨の堅い感触が無くなった。代わりに、ぐにゃりと気色悪い何かが手に纏わりつく。確かに先ほどまで絹のように繊細な毛がそこにはあったはずなのに、今では水をたっぷり吸った泥の塊が指の間から滴り落ちていくだけである。他の獣達も同様で、全て泥と木の葉の塊へと変わっていた。
「あの狐の仕業、でしょうか?」
「そうだな」
光秀様の呟きに、聞きなれない――しかし、確実に聞いたことのある声が答えた。それは、脇に待機していた小姓の中から聞こえており、だが、困惑顔でお互いの顔を見合っている小姓達の顔ぶれは普段と変わらない。
「そこに並べ」
信長様にそう指示され、小姓らは信長様の前に素早く並ぶ。自分もその列に加わるべきか悩んだが、私への疑惑は解けているらしく、信長様は何も言わなかった。
信長様は一人ひとりの顔をじっくりと見つめていく。遠く離れた位置に座っているはずなのに、その眼光の鋭さは微塵も衰えない。そうして、最後の9人目まで観察し終わった後、唐突に声を発した。
「お蘭――此度の成果はいかほどだ?」
「兎3羽に雉2羽、むじな2匹、鹿1匹、それと狐1匹です」
「家康、どういうことか分かるか?」
そう話を振られた家康様は、暫く小姓と泥の塊を見やる。そうして、恐る恐るといった風に口を開いた。
「獣の数と、小姓の人数が合いませんな」
その通りだった。獣の数は9匹で、並んでいる小姓の数は9人、それに私を含めると計10人になるのだ。つまり、小姓が1人多いのだ。信長様の周りにいる人の顔は全員覚えている。しかし、招かれざる客が誰なのかは不思議と分からなかった。
疑惑と不安とが混ざった視線が交錯する。その中で、唯一平素と変わらない目をした信長様がゆらりと立ち上がった。その手には村正が握られている。何が起こるのか、自然と想像してしまい、背中に冷や汗が流れた。
「斬って捨てれば、自ずと分かる」
一人の小姓の首元に刀の切っ先を突きつける。彼の未だ成長しきってはいない喉仏に鮮血が流れる。唾一つ飲もうものなら、そのまま剣先も飲んでしまいそうであった。
「お待ちください、信長様!」
今しも信長様が剣を振り上げようとしたその時、光秀様の制止の声かかった。そちらに顔を向ける信長様の向こうでは、小姓が生唾を飲み下すのが分かった。
振り返ったきり何も言わない信長様に、光秀様が声を絞り出して進言する。
「誰が何を持ってきたのか、問うべきでしょう。そうすれば、疑わしいものが二人まで減ります……!」
「――確かにうぬの言うとおり、ぞ」
信長様が目を細めて、小姓達をゆっくりと眺める。その視線に耐えながら、各々何を持ってきたかを、疑いを晴らすかのように声を張り上げて申告していた。
その結果、鹿を持ってきたというものが二人いたことになった。彼らは唇すら青くして、全てを諦めたように俯いていた。信長様に近かったほうの小姓の首筋に刃が当てられた。光秀様が顔を歪めて、口を開き――しかし、何も言えずに口を閉ざした。
刹那、風を切る音に続けて、地面に重い何かが落ちる音が二回続けざまに聞こえた。ごろりと転がった小姓の頭と視線が合う。がらんどうの瞳は、ただ不気味であった。
「お、お助けくださ――!」
命乞いも虚しく、再び肉の塊が倒れる音がする。信長様は他の小姓にそれらの処理をするように告げた後、ふとこちらに目をくれた。心臓が、跳ねる。
信長様の唇が歪に歪む。そこから漏れたのは、低く卑らしい笑いであった。そして、それに答えるように場にそぐわぬほど軽快な笑い声が後ろから聞こえてくる。咄嗟に振り返った私の目に飛び込んだのは、清廉とした白の衣装であった。
「思ったほどつまらん奴だなぁ。これは退屈しそうだ」
耳まで裂けるかと思われるほどの笑いに覗く、血を求める獣の赤い舌。
あの時の女が、そこにいた。
「これで第六天魔王とは笑わせる。所詮は人の子、神の子か。随分保守的なやり口だ。――あぁ、いや、真に嘆かわしいのが、お前のようなものでもうつけ者と呼ばれていることだ。既にある道を歩む者のどこがうつけなのか。これでは、まだあの馬鹿のほうが道を踏み外している」
にたにたと笑う女の目は、不思議な色が渦巻いていた。信長様に向けられていたそれは、不意にこちらに向けられた。一瞬、それに飲まれかける。
「童、お前は信長が好きか?」
「敬愛して、おります……」
「そうかそうか。それは可哀想に。じきに死ぬぞ、あれは。なぁに、そう遠くない話さ。いやいや、むしろ遠かったら私が困る! こんなところにいたら、私の鼻がもげてしまう。鉛に犯された獣の腐った死体よりも酷い悪臭だ。鉛そのもの。悪意そのもの」
酷く楽しそうに女はそう言いながら、すいと信長様に近づく。
止めなければ。そう思っても、体は動かない。
女が、信長様の前に立つ。風にはためく衣は、ある種神々しさすら感じられた。
「これから、世話になる。解脱者よ」
そう言って差し出された女の手を、信長様は手にして刀でたちどころに斬ってしまった。しかし、そこから滴り落ちるはずの血は存在しない。手首の断面からは、ただ肌色の粘土のようなものが見えるだけだった。手首から先がなくなったというのに女は平然な顔をして、言葉を続ける。
「出来ればゆっくり休めるところを用意してくれるとありがたい。止まっている者のほうが時間が進むのは早い」
「時は平等ではない、と?」
「人が平等ではないのに、時も平等である道理はないだろう」
女はそう言いながら、手首の断面を袖に下に隠す。そうして、袖から覗いたのは細い指先であった。信長様はそれを見て、口角を持ち上げる。
「妖とは実に恐ろしきものだな」
「私に言わせれば、神のほうが恐ろしいよ。無論、神の子たる人もな」
「その妖怪が何しにここに来た」
「時を進めに」
「停滞した世を作ろうというのか」
「私情と上司の命令によって、な。まぁ、私自身が手を下すことはないさ。穢れたくはない」
地面に残った小姓の血のあとを見て、女は楽しそうに目を細めた。しかし、すぐに興味が失せたようにそこから目線を離すと、そのまま私達に背を向けた。
「それでは、また、な」
そういう女の声が、風に攫われ消え去ったかと思えば、既にそこに女の姿もなかった。