「どこに行ったんかのー」


 額に手を立てて辺りを見回していた秀吉様が、誰に言うとも無く呟いた。その言葉を受けて、家康様が肩にかけるようにして持っていた火縄銃を持ち替えながら同意するように声を漏らした。光秀様はただ静かに、勢子達がざわざわと騒ぐ様子を遠くから見ていた。
 ある平原に鷹狩りに来ていた時のことだった。その日の獲物は芳しくなく、兎一匹取れはしないという状況だった。ようやく勢子が鳥を一匹草むらから追い出したかと思えば、それを追いかける鷹はその鳥とともに遠くへを飛び去ってしまったのだ。生暖かい湿った風が頬を撫でるのを感じながら、信長様をちらりと見る。その表情は平素と変わらないが、その隣に立つ鷹匠は土気色の顔をしてぶるぶると震えていた。
 鷹を探しに行ったところで、鳥の行動範囲を人間が調べつくすことをできる訳が無く、それはつまり今まで手をかけてきた鷹を手放さなければならないことを示している。あまり、喜ばしい事態ではなかった。
 信長様は何も言わない。遠くの木々を映すその瞳は、ただ静かだった。それが揺らぐ。まるで海原に投げ込まれた小石のように、そのたゆたいは僅かなものだった。しかし、心臓はどきりと跳ねる。信長様の視線の先を追う。広がる森のその向こうにあるものを見通すために目を細めた。
 空気が歪んでいた。真夏の蜃気楼のようにゆらゆらと揺らめくそこは、異質なはずなのにその風景に馴染んでいる。逃げ出すべきなのに、体が動かない。危険だと頭では理解しているのに、心は不思議と凪いでいる。頭と心が一致していなかった。


「うぉっ! な、なんじゃ、凄い風……」


 突如として風が吹きすさんだ。飛んでくる塵のために、反射的に目を瞑ってしまう。秀吉様の言葉がぷっつりと途切れたのが気になって、すぐさま目を開けた。
 真っ先に視界に飛び込んできたのは、風に弄ばれている白色だった。この開けた場所に隠れる場所などなく、唐突に現れたそれは奇妙であった。音も無く静かにはためく白色の中で、紅色の帯があたかも蝶のようにひらひらと揺れている。その柔らかな布に包まれて、一人の女が立っていた。曲線美に満ちた体を持った彼女は、帯に負けないほどに赤い唇で孤を描く。


「お探し物は、これかな?」


 彼女は右腕を水平に挙げた。彼女の着物と袖は繋がっておらず、切り離されたような形状をしていた。露出した肩は白く、陽光を内包しているようだった。
 その彼女の腕に、今しも一羽の鷹が止まるところであった。雄々しく羽を広げてどこからともなく現れたその鷹は、ちょこんとその大きさの割には静かに彼女の腕の上に収まる。鋭い目つきも彼女が顎を擽ると途端にへにゃりと気の抜けたものになった。よく知ったあの悠然とした鷹とは似ても似つかぬ挙動ではあったが、しかしその鷹は確実に信長様のものであった。


「何者です!」

「それは、私の名を聞いているのか、私の立場を聞いているのか。――まぁ、親切な私は更に私の目的も答えてあげようじゃないか。で、私は誰かといえば、だが」


 彼女は優雅な仕草で袖を振る。鷹がばさりと風を切って飛び上がった。胸の前まであげた袖の中で手を重ね、上半身をゆるりと曲げた。


「稲荷台明神が眷属、飯綱がと申す。山は我らが領分ゆえ、悪戯に荒らすと云うならば、こちらも其れ相応の処置をば取らせて頂く」


 と名乗った女の言葉が振動となって肌を震わす。語気を荒げてはいないのに、息が詰まるほどの迫力と足を竦ませるほどの威圧感があった。
 誰も何も言わない。いや、言えないのか。事実、私自身も口内に溜まった唾すら飲み込めずにいた。喉元一つ動かしただけで、切りつけられそうだった。
 凍りついた時間の中で、唯一動けるのは女だけであった。その女が、歪な三日月を口元にたたえる。耳まで裂けるのではないかと思うほどに、口角が鋭く尖っていた。その笑みが何を意味するのか理解するよりも早く、耳の中にに妖しい笑い声が忍び込んできた。信長様だ。ざくざくと草木を掻き分ける音と家康様の小さな驚嘆の声が聞こえた。
 刹那、破裂音がした。女の体がぐらりと揺れる。鷹の鋭い鳴き声の中でも、女が枯葉の中に落ち込んでいく音はしっかりと聞こえた。火薬の匂いが鼻につく。振り返るとそこには、火縄銃を構えた信長様の姿があった。


「――妖に睨まれる。それもまた一興、ぞ」


 銃を降ろした信長様は雑草を踏み荒らして女の元に向かう。身を屈めたかと思えば、信長様は何かを持ち上げてこちらに振り返った。


「狐、ですか?」


 光秀様の言葉通り、その獣は狐のようだった。
 狐色というよりも飴色に近い艶やかな毛並みは見とれるほどに美しく、腹部や頬、尾の先は白色が清らかに輝いていた。単調に揺れる尻尾は長くふんわりとしていて、いかにもさわり心地が良さそうであった。ぽっかりと開いた口から覗く舌や、ぶらりと投げ出された四肢から、その狐はとっくに絶命していることを悟る。心臓があるであろう場所が、鮮血に濡れていた。


「化かされとったんか……」

「この狐が語ったこと、誠か嘘かは分からぬが――いや、真であったほうが面白い、か」


 喉の奥で笑う信長様の真意は計り知ることは出来ない。ただ、初めて、主のことを得体の知れない恐ろしいもののように感じた。今までも、信長様のことを底の知れない方だと思ったことはある。しかし、これほどまでに原始的な恐怖感を煽られたことは無かったのだ。ざわざわとさざめく周りの人には微塵も動じず卑しく笑うその男は、織田信長という人物には見えなかった。


「狩を続けよう、ぞ」


 その後の狩は、豊作も豊作であった。兎、雉、むじなに加えて鹿まで取れたのだ。随分と機嫌のいい信長様を見て、鷹匠の血色は良くなっていた。しかし、私の心中は穏やかではなく、形容できない不安感に苛まれていたのだった。