彼女を端的に表すとしたら――いや、たとえどんな言葉を用いたとしても、彼女の不可思議さを説明することは出来ないだろう。
 本名は不明。彼女が名乗ったという名前は、しかし私には本名には思えなかった。外見だけを見るならば、妙齢の美人である。一方で、彼女の所作は老獪さと荒々しさを感じさせるものであった。しっとりと落ち着いた声が紡ぎだす言葉の数々は、常識に囚われないものであり、地面から解放された鳥のように伸び伸びとしたものであった。そんな彼女の話は心惹かれるものがあったが、だからこそ彼女に対して疑り深くなっていった。
 つまり、彼女は何をしようとしているのか。それが、信長様を害するものなのか。この一点のみだけを、私は常に気にしていた。それこそが、小姓たる私の役目であるのだ。
 襖の向こうには、何の気配も伺えない。信長様直々の命令で、件の彼女を呼び出しに来たのだ。空に浮かぶ雲のように気ままな彼女が、大人しく与えられた室にいるようには思えなかった。事実、すんなりと開いた襖の奥では僅かな埃が舞っただけだった。細く息を漏らす。


「勝手に人の室に入るとは感心しないな」


 耳にかかる吐息に、一瞬息を吸うことを忘れてしまった。一抹の胸の苦しさを感じながら後ろを振り向けば、三日月のように歪んだ真っ赤な唇が目に入った。


「――す、すみませんでした」

「なに、どうせ大したものは置いておいていないからな、気にするな。ところで、一体私に何の用だ?」


 一歩分距離を取りつつ、信長様に呼ばれている旨を伝える。彼女は、顎に手をあて唸った。その様はまるで一つの美術品のように洗練されたものだった。


「あまり気乗りはしないが、致し方あるまい。善は急げというから、ゆっくり向かうとするか」


 言葉通りゆったりとした足取りで、信長様の室へと向かいだす彼女に慌てて声をかける。


「信長様のお呼びですから、急いで頂きたいのですが――」

「そんなに急いで何になる」

「全てを為すには、人の一生はあまりに短いからではないでしょうか」

「いのち短し恋せよ少女、朱き唇褪せぬ間に、熱き血潮の冷えぬ間に、明日の月日はないものを――」


 穏やかな調子をつけて、彼女は口ずさむ。一瞬の儚さを、花が朽ちる幽玄を歌うその声は静けさに満ちていた。木立すらその歌を聞き漏らすまいと静かになる。その中で響く透き通った歌は、胸にこみ上げるがあった。


「それは、何です?」

「ゴンドラの唄、だったかな? 中々繊細な曲だが、粗雑な私には似合わんな」

「あなたはそのような方には見えませんが――」


 くすくす笑うその横顔を、西日が縁取る。きらめく彼女の姿は、ある種神々しさすら感じさせた。女神は悪戯っぽい目をこちらに向ける。


「見てくれと、中身が同じではつまらぬだろう? 総じて、我々は娯楽に飢えている。つまらん奴は嫌われるよ」

「――左様ですか」

「思えば私も退屈していたところだし、蘭丸のためにも少しは急ぐとしようか」


 ひょいと角を曲がって消えた彼女に「お気遣い無く」と返事をしようと思った。しかし、その言葉は舌に乗る前に飲み込んでしまう。
 信長様の自室まではまだ幾分か歩かなければならない。間違っても、一つ角を曲がるだけでは着くことはないだろう。しかし、だとしたらこの目の前の光景は何なのだろう。


「待たせたか?」

「うぬにしては早いほう、ぞ」

「はてさて、私はそんなに暢気だったか」


 すぱんと心地いい音を立てて、襖を開けた彼女と対峙しているのは我が主信長様である。後ろを振り返れば、何てことは無い。見慣れた廊下が伸びているだけだ。再び前を向く。これもまた、よく見知った信長様の自室が広がっている。


「どうした、狐にでもつままれたような顔でもして」


 釣り上がった目と、にたにたと歪む口元。酷く楽しそうに笑う彼女と目が合った。瞬間、理解する。この女の所為なのだと。
 思えば、これが初めてではない。出会った当初から、彼女は変わっていた。