「自分のために、自ら進んで自分の体を痛めつけるだなんて、全くお前の趣味は理解できん。しかし、まぁ被虐趣味なんてものは自己愛の最たる表現方法だからな。理解出来なくもないことではある。が、やはり共感は出来ないな。――で、手首の調子はどうだ?」

「怪我の具合を尋ねる前に、わざわざ長ったらしく説教してくれたのは貴方だけですよ」

「ふむ、そうか。だが、それが私の性格だ。今更気にはなるまい?」

「それは勿論そうですが――」


 釈然としない気持ちには目を瞑って、月光に照らされた殿の横顔を見る。どこから持ってきたのか、瓢箪を片手に彼女は岩の上に胡坐をかいていた。
 殿は木々を分け入った森の奥――ひっそりと静まり返った円形に開けたところにいた。その中心には私の背丈ほどの高さの岩がある。そこに殿はぽつんと一人で座っていたのである。そこには哀愁よりも崇高な雰囲気が漂っていた。


「ぼさっと突っ立ってないで、帰るかこっちに来るかしろ」

「じゃあ、隣、失礼しますよ」


 殿に腕を引かれて、岩に昇る。ごつごつと荒く削れたその表面は、なかなかに座り心地が悪い。平らな部分が少ないため、不安定で仕方が無い。その僅かな面積に殿は座ることなく、顎で私にそこへ座るように促がす。


殿がどうぞ、と言っても聞いてくれないんでしょうね」


 そうぼやきながら、大人しくそこに収まる。殿は満足そうに笑う。その笑みがふいと視界から消えた。その直後に、背中に重みを感じる。温かで柔らかく、その重みがむしろ心地いい。首を捻れば、瓢箪を煽っている殿が見える。酒の匂いが鼻についた。


「それ、どうしたんです?」

「んー、貰ったんだ。飲むか? 上手いぞ」


 殿はこちらを見ずに、ずいと瓢箪をこちらに突き出す。その瓢箪の口は濡れている。思わず、唾を飲み込んでいた。
 私がこれに口をつけるということは、瓢箪を間に挟んでいるとはいえ、殿の唾液を口にするということだ。それは、もう彼女に口付けるのと同義ではないだろうか。体温上昇。脈拍上昇。酸素欠乏状態である。
 興奮で震える腕を叱咤して、殿の麗しい唇へと手を伸ばす。しかし、それはすんでのところで、ひょいと遠ざかってしまった。


「――やっぱり駄目だ」


 そう言って殿は涼しい顔をして、瓢箪を傾ける。まさか、私の考えていたことが分かったのだろうか。急上昇した体温は、途端に急降下しだす。「どうしてです?」そう問いかける声は、震えていた。


「これは鬼ころしといってな、まぁ、言葉の通りあの酒豪の鬼でもころっと酔ってしまうような酒なんだ。お前が飲んだら、それこそ死んでしまう。酒は少量ならばいい薬であるが、多量に摂取すると急性アルコール中毒で死んでしまうからな。気をつけろよ」

「――もう酒は飲みませんよ。貴方に怒られたくはありませんから」

「別に怒ってはいないさ。心配故の行動だ」

「で、今回は一体何が心配で、自棄酒なんてしてるんですか」


 ぼそりと殿に尋ねれば、彼女の体がぴくりと動いたのが背中伝いに分かった。しかし、殿が動いたのはそれきりで、行動することは愚か話すことさえしてくれそうにない。手持ち無沙汰でぼんやりと月を仰ぎ見る。真ん丸いそれに兎は住んでいるのだろうか。殿のような存在を知った今、その迷信は一笑できはしなかった。


「月の兎は、いつも餅をついているのでしょうか」

「――んー、餅をつくのは地上の兎だよ。月の兎はそんな風流なことをしない」

「もしかして、知り合いだったりします?」

「幾らかは見知った奴がいるし、かの地の噂は一応聞き及んでいる。行こうと思えば行くことも出来るが、私の性には合わんところだからな。天音はしょっちゅう出入りしているそうだが。――つまり、まぁ、我々にとっての高天原みたいなところだ」

「神の住むという?」


 随分と壮大な話である。夜を静かに包むあの星に、そんな厳かなものがいるというのは想像できない。しかし、同時に神というものはそのようなものなのかとも思われた。ただ、静かに。覗き込むものの姿を映す湖面のように、落ち着いたものであるのだろうか。


「そんな大仰なものでもないがな。あくまで、我々妖怪にとっての、だからな。人からすれば、地獄と変わらんさ。それに、近頃はきな臭い話が増えてな。お前が巻き込まれたアレも、その一環らしいが。天音の考えることはややこしくて敵わん」


 殿は唇を尖らせてむくれる。雰囲気にそぐわない幼い表情がとてつもなく可愛らしくて、目に焼き付けるようにじっくりと見つめた。その視線にすぐに気付いた殿は、こほんと咳払いをしていつも通りの仏頂面に戻った。


「あいつは野心家だからな。もしかしたら、権力を手にするために月の都の兎を討とうとしているやもしれん。――一応、言っておくが冗談だからな、本気にするなよ。天音はそんな暴力的な手段に訴える奴ではない」

「訂正するのは目的ではなく、手段の方なのですね――天音殿は、神になりたいのですか?」

「うーん、それは正しいとも言えるし間違っているとも言えるなぁ。ただ、一つ確かなのはあいつはあいつなりに我々のことを考えているということだ。その身を賭けてもいい程度にはな」

「こう言っては何ですが、天音殿はそのように情熱的な方には見えないのですが」


 正直に口に出せば、殿はくつくつと肩を揺らして楽しそうに笑った。殿の忍び笑いを肩越しに感じながら、天音殿の顔を思い出す。美しく、哀れみ深い彼女の微笑は、容易に瞼の裏に浮かんできた。しかし、それはのっぺりとしており、まるで紙に描かれたかのようで、現実感というものを感じさせない。目じりの皺だとか弧状に持ち上げられた唇の形だとかが、不自然なほどにはっきりと思い出せるのだ。殿は確かにそこに在る。しかし、天音殿はそのように思えない。どこかから切り取ってきた彼女を、そこに貼り付けているだけのような印象を受けた。天音殿の存在は異質なのだ。


「あぁ、うん、そうだな。あいつは母性の権化たるような奴だからな。お前にはそう取れるだろうさ。――なにせ、母というのはこの世で最も味方にすれば頼もしく、敵にすれば恐い存在だからな。子に対する母の愛情ほど、純粋なものはないよ」

「では、私に母はいないということになりますね」


 口をついて出たのは、刺々しい言葉であった。その棘に背中でも突っつかれたのか、殿はばっと立ち上がった。何事かと思い、慌てて振り向く私の鼻先に、白くほっそりとした指の腹がびしりと突きつけられる。


「そこが! 人間が人間たる所以だ! お前らは脳とかいう蛋白質の塊を悉く肥大化させた挙句、生物の生物たらしめるものを失ってしまった! だから、子を捨て、自らも捨ててしまう! あぁ、全くもって理解不能だ!」


 殿にしては珍しく、まるで演説のように調子をつけて朗々と語った。偉大なる演説者の顔は、酒のためか上気していた。しかし、殿はすぐに我に返ったのか、私のほうを向いてしゃがみこむ。すっとこちらに手を伸ばす彼女の表情はうかがい知れない。


「か弱く脆いくせに、どうしてお前らは自ら破滅へと向かおうとするんだ」


 私の頬を包む心地よい手のひらの感触に、目を細める。この冷たい温もりは、私の心を酷く落ち着ける。切なく儚い旋律が、脳の奥へと染み渡っていく。


「浮世なぞうつろいゆくものなのだ。過去を、未来を気にしてもどうしようもない。全ては等しく存在できるし、同時に存在しないものだ。それだというのに――」


 殿はそこで言葉を切った。揺れる語尾が、耳の中で跳ね回る。
 きゅうと心臓が縮こまった。殿は、今、何を思い、何を考えているのか。それを、この目で確かめたい。その一心で瞼を持ち上げれば、光り輝く兎の姿が真っ先に視界に飛び込んできた。殿の姿は、夜の墨で塗りつぶされている。


「全く、本当に、どうしようもなく、お前達は馬鹿だなぁ」


 深々と降り注ぐ月光を飽和したような清らかさと、花びらがひらりと落ちる瞬間のような儚さを含んだ微笑がそこにはあった。