「手首の調子はどうだ?」


 信繁の帰りを今か今かとあやつの自室で待ちながら、何をするでもなくごろごろと横になっていた。そこにようやく帰ってきた信繁はじろりと見下ろして、およそその表情に似つかわしくない言葉をかけてきた。


「そなたのせいで悪化した」

「そうか、それはすまなかったな」


 信繁は涼しい顔をして文机の前に腰を降ろす。鏡に映したかのように寸分違わぬこの男は、だからこそ己にとって最も忌々しい存在でもあった。自分よりもはるかに優れた自分。劣等感は次第に妬みへと変わっていた。あらゆるものを奪われ、そして唯一残った殿までとられてしまっては、何も残らなくなってしまう。胸の内に燻る焦燥感でそのうち内側から焼き殺されてしまいそうだ。


殿と何処へ行っておったのだ」

「場所などそなたにとって何の関心もないことだろう。そんなことよりも、“何”をしていたのかが気になって仕方がないとみえる」

「――分かっているのなら、さっさと答えろ」

「生憎、口止めをされているので教えたくても教える訳にはいかん。まぁ、そなたが気にするようなことは何もなかったとだけ言っておこう」

殿と誰かが、私の与り知らぬところで一緒にいた、というだけで不愉快なのだが」

「男の嫉妬は醜い、とはよくいったものだ」


 信繁がゆるゆると息をはいて、斜にこちらを見る。自分ばかりが腹を立てていて、てんで相手にされていない。そのことが悔しくて、唇を噛む顎に力が入った。


「私は――そなたによく似ている」


 ぽつりと信繁がそう呟いた。こちらを見るでもなく、視線をぼんやりと宙に浮かせたあやつは、いつになく呆けた顔をしていた。赤暗く染まった陽光にぼんやりと照らされた信繁は、その存在の境界線が曖昧で、ともすればこの部屋に溶け込みそうである。そんな妄想を振り払うために、語気を強めて言葉を返す。


「それがどうした」

「お互い、よくここまで無事に生きてこれたものだ。――いや、幸村は死んだのか」

「だから、生者のそなたは死者の私から何を盗ってもいい、と?」

「それはそなたの妄想だ。私はただ、あの時もしかしたら、幸村だったのは私かも知れなかったのだと思っただけだ。運命とは、皮肉なものだな」

「そなたにしては煮えきらぬ物言いで、それに嫌に饒舌だ。男は寡黙であるべきだぞ」

「私にもそういう気分の時はある」


 眉間に手を当て、顔を俯かせる信繁からは、普段の不遜な態度など微塵も感じられない。むしろ、弱弱しくもある。私はすっかり毒気を抜かれてしまっていた。
 一体、殿とこやつの間に何があったというのか。信繁の口ぶりからして、そういうことはなかったのだろうが、こうもこやつの様子が変わるとそれはそれで気になるというものだ。


「――殿と何を話したのかは、やはり言えぬのか」

「そんなに気になるなら、殿に聞いてくれ」


 信繁は面倒くさそうに手をひらひらとさせ、私を追い払うような仕草をする。疲れきった顔をした信繁から流れ出る灰色の空気を払う術を、私は持ち得なかった。
 だから、この部屋から退出させてもらうことにする。こういう時にかけるべき言葉を、私は知らない。何も出来ないのにここに留まっては邪魔になるだけだ。滑りの悪い襖を開けながら、ある言葉を思い出した。


「信繁」

「――なんだ」

「人は、自身の長所によって発達し、自身の短所によって滅ぶものだ。運命などという見えない糸よりも、自身の選択という確かな行動の結果が、今の私達なんだ」

「それは、殿の受け売りか?」


 信繁の呆れ混じりの笑いに、私も嘲笑を返す。そうして、襖を閉じた。私と信繁がいた空間は、もう存在しない。ふうと息を吐いて、空を見上げる。夜が始まろうとしていた。