「手首の調子はどうっすかー?」


 特にすることもなくただ暇を潰すためだけに歴史書を繰っていると、唐突に本に影が差した。ふいと視線を上に向けると、天上の板戸の隙間からぶらりとぶら下がったくのいちがいる。体を前後にふらふらと揺らして勢いをつけた彼女は、そのままくるんと空中で一回転して着地した。なんと身軽な忍びだろうか。


「もう大分よくなりましたよ。まぁ、無理に動かせばまだ多少痛みがありますが」


 右手首を摩りながら、そう言う。本来の予定を大幅に延長して、上田に留まっているのだ。殿が私の怪我の心配をしてくれたからである。そんな気遣いは無用だと突っぱねたのに、殿が無理やり私をここに留めたのだ。彼女の足を引っ張ることを申し訳なく思いつつも、私のことを考えてくれることが嬉しくてたまらなかった。
 くのいちはしげしげと私の手首を覗き込んできたかと思えば、唐突にこちらにぐいと顔を近づけてきた。その顔は先ほどまで浮かべていた微笑から一転して、苦虫を噛み潰したようなものになっていた。見ていて飽きない者だ、などとそれをぼんやりと見ていると、思いも寄らぬ言葉がくのいちから発せられた。


「そんなことより! 信繁様とちんが一緒に出かけたっての知ってます?」


 さりげなく私の怪我などどうでもいいと告げられたが、そんなことよりも後半の部分が何よりも聞き捨てならず、息巻いてくのいちの腕を掴む。


「それ、どういうことです? 詳しく聞かせてください」

「えぇっと、その、あの、私も詳しくは知らないんですが――今朝方、信繁様がどこかに出かけようとしてたので、あたしも着いて行こうと思ったんですが、止められちゃって。なんでもちんに呼び出されたとかで、二人きりで話がしたい、と」

「そんなの、私は聞いてません」

「そりゃあ、言ったら止められるからじゃないですか?」


 確かにその通りだったので、口から迸りそうな言葉を飲み込む。数回ゆっくりと深呼吸をして、心を落ち着かせる。そうしているうちに段々と、右手首が鈍く痛み出してきた。無意識のうちにくのいちの腕を強く握りすぎていたらしい。未だ完全に元に戻ったとはいえず、こうして力を入れすぎれば痛むことがあるのだ。慌てて手を離せば、くのいちの腕には赤い痕が残っていた。


「あ、申し訳ありません。痛かったですよね?」

「いえいえ、大丈夫ですよー。思ってたよりも力強いんですね。いつぞやだったか、信繁様と手合わせしていた時も、結構いい動きでしたし」

殿に鍛えられていますから。――殿は何故私に内密で信繁を呼び出したのでしょうか」

「まぁ、妥当に考えるとしたら、幸村様の耳には入れたくない話なんじゃないですか?」

「――嫌な想像しか出来ないのですが」

「いや、私だって何か嫌な予感がするんですよ?」


 重たい沈黙が二人の間に訪れる。言い知れぬ危機感が私を背後から追い立てる。それに突き動かされるように、今すぐにでも殿を探しにいきたがったが、行き先も知らないのにそれは無謀というものだろう。しかし、くのいちですら行き先を知らないのだから探しようがない。苛立たしさから思わず舌打ちをしてしまう。


「まぁまぁ、気を落ち着かせてくださいよ、ね?」

「あなたこそどうしてそう落ち着いてられるんですか。今こうしている間にも二人が何をしているか分からないというのに」

「いやぁ、こういう時って代わりに動転してくれる人がいると、結構冷静になれますよね」


 くのいちの浮かべる笑みが嘲りのそれに見えて、気がつけば眉間に力を込めていた。それを受けて、くのいちは更に笑みを深める。それが私の苛立ちを更に煽る。そんな私の不機嫌具合を感じ取ったのか、にやにやと楽しそうに目を細めるくのいち。それを見て、更に不機嫌になる私。――悪循環だ。
 このある種ふざけた雰囲気を打ちきるために、わざとらしく盛大にため息をつく。くのいちも幾分か口元の笑いを引っ込めた。


「つまり、私達に出来ることは何もないと?」

「そういうことに、なっちゃいますねー」


 飄々とそう言ってのけるくのいちの顔に焦りは微塵も感じられない。対する私は、多分酷い顔をしているのだろう。
 己の大切な人を奪われそうになって平静を装えるほど、私はまだ大人になりきれていない。たとえそれが被害妄想であろうと、私の心を波立たせるのならばその時点で害があるのだ。


「はいはい、その怖い顔やめましょうねー」

「そんなに顰め面をしていました?」

「いや、というより無表情すぎて怖いんです」


 いつも笑みを浮かべているくのいちが、冗談まじりの口調すらなしに酷くまじめな顔をして言うものだから、思わず自分の頬に手をあてる。そこまで冷たい顔をしていたのだろうか。指先にひんわりと伝わる己の体温は確かに冷たかった。