「で、お前は何をしにきた」


 若干の緊迫した空気の中、口火を切ったのは殿だった。彼女の声の調子は普段のそれよりも厳しく硬いものだった。それを受けて、天音殿は僅かに目を伏せた。そうして、熟れた実のように真っ赤な舌で上唇を舐めると、ゆっくりと口を開いた。


「見つかりましたの。といっても、どうせ貴方も薄々は感づいていたんでしょう?」

「――そう、か」


 腕の中の彼女が、より小さくなった気がした。それほどまでに、殿の声はか細く儚いものだった。このまま消え去ってしまうのではないかと彼女を抱く腕に力を込めると、彼女は擽ったそうに身を捩った。先ほど一瞬感じた幽玄な雰囲気はもう霧散していた。


「では、私は近いうちに魔王に謁見せねばならないということだな」

「えぇ、そういうことですわ。精々、取って食われないように気をつけなさい」

「思ってもいないくせに」


 殿はくつくつと喉の奥で笑う。天音殿もそれに合わせて、微笑を浮かべた。しかし、私はそんな二人に付いていけずに、漠然とした不安から逃げられずにいた。天音殿がわざわざやってきたのだ。その見つかったものというのは、正しくモノなのだろう。そして、殿がそれを回収する。それだけのはずなのだ。しかし、彼女達が一瞬見せた不安感を煽るような顔が忘れられない。それに、殿がモノを集め終えたら、私達の旅は一体どうなるのだろうか。殿は、元々彼女が住んでいた場所に戻ってしまうのだろうか。では、私はどうなる。


「ようやく見つかったはいいが、どうせここからも長いのだろうな」

「えぇ、きっとそう。何せ第六天魔王を自称するのですから、そう簡単にはくたばりそうにありませんわ」

「――もしや、私達が次に向かうのは」


 第六天魔王。その名前を聞いて、浮かび上がってくるのは一人の人物だけだった。それが合っているかを確認すべく、殿に尋ねようとする。彼女は呆れたような眼差しをこちらに向けた。


「察するのが遅いな。しかし、まぁ、旅ばかりで世間の情報などあまり手に入れられない環境で、その人物を想像できるというのは凄いことなのかもしれぬが――その通りだ、幸村。お前の考えた通り、次の目的地は尾張の織田信長のところだ。人の身でありながら、魔王などと称する男だ。楽しみだな」


 私はそれに曖昧な笑みを返すしか出来なかった。信長といえば、信繁の主家であった武田家を戦で殲滅した人物である。モノは人から人へとより強い人物を求めて彷徨っている。これでは、まるで武田家がモノに憑かれていたような感じを受ける。そして、信繁を通じて信玄殿とも少なからず交流のあった殿がそのことに気付かないことはありえない。――そこまで考えて思考を放棄した。何であったにしろ、それは私に直接関係があることではないのだ。私にとって、何にも替え難く尊いものは殿だけなのだ。信繁など彼女に比べたら取るに足らない人物なのだ。私はただどこまでも殿に着いていくだけだ。


「所詮は人間。貴方の好奇心を満たすに足る人物かしら?」

「それならそれでいいさ。どうせただの暇つぶしだ。――まぁ、こいつ以上に面白い人間はいないだろうがな」


 そう言って殿は、私の手を取る。今日の殿は妙に積極的だ。それはありがたいことだが、普段の彼女のつっけんどんな様子とは違いすぎて落ち着かない。何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。


「ということは、やはり幸村君は人間じゃないのかしら? それとも、大脳に損傷があるのかしら?」

「――天音」


 冗談めかして私を馬鹿にする天音殿は、低く張り詰めた殿の言葉を聴いて、きょとんと目を丸くした。殿は私の手を持ち、じっと見下ろしている。背筋を冷たい汗が滑り落ちた。理由は分からないが、嫌な予感がする。


「いつからだ?」

「はじめからですわ。もしかして、気付いてなかったんですの?」


 殿は小さく舌打ちをした。それから、上半身ごとこちらを振り返る。きつく釣り上がった彼女の瞳は、怒りに染まっているように見えた。


「幸村。お前も気付かなかったとでもいうのか?」


 ここで頷こうものなら、更に殿の怒りを煽ることになるだろう。しかし、彼女が何に対して怒っているのか分からないのに、知っている振りをしたとしても怒られるだろうことは目に見えている。だとすれば、ここは素直に首肯しておくしかないだろう。
 殿は眉間に深く皺を刻み込んだ。尖った声が飛び出してくる。


「お前は馬鹿か。阿呆か。猿の知恵しかない愚か者か」


 一息にそう言うと、今度はその鋭い眼差しを天音殿に向けた。


「天音も天音だ。一言、そう言ってくれればいいものを! 大体、お前が暢気に雨ざらしで立ち話なんぞしているから悪いんだ!」

「確かに少なからず私が原因を作りはしましたわ。しかし、それはあくまで貴方を鬼子母神にさせた原因であって、幸村君のそれとは直接の関係を持っていないわ。むしろ、貴方が悪いような気がするのですけれども? 散々、私に人間の扱いを覚えろというわりに、貴方もまだ出来ていないのではなくて?」


 天音殿は唇を三日月のように曲げる。弁明を挟む暇がないほどに矢継ぎ早に紡ぎだされたその言葉の数々に、殿は一層表情を険しくする。しかし、何も言わなかった。唇を噛み締めて、俯くだけだった。
 殿が一体何に対して腹を立てたのか未だ理解はできていない。ただ天音殿の発言から、漠然と自分に関係しているのだろうと推察できただけだ。だが、しょげ込む殿をただ見ているだけというのは出来なかった。


殿、そのように落ち込まないでください。確かに、殿にも悪いところはござりましょう。ですが、私はその程度気には致しませんよ」


 殿は何も言わず私の右手首をゆるゆるとさする。くすぐったいような、甘酸っぱいような、そんな感覚が心を満たす。殿は悲哀を孕んだ声で私に尋ねた。


「痛くはないか?」

「いえ、特にそのようなことは――」


 殿のふっくらとした指先が、手首に食い込む。その瞬間、腕が裂けるのではないかと思うほどに鋭い痛みが走った。口からは小さくうめき声が漏れる。それを聞いて、殿はすぐさま指を離した。それでもまだじんじんとした痛みは残る。乱れる呼吸を落ち着けようと深呼吸を繰り返す。唇を噛み締めて、痛みに耐える。それでも息は自然と荒くなっていた。


「余計なことをしおって」


 殿は苛々したように舌打ちをする。そして、一旦腰を浮かせて私と向き合うように座りなおす。再び、彼女は私の手を取る。
 ほっそりと白い殿の手とは対照的に、私の手首は赤く腫れ上がっていた。一回りほど大きくなった手首は動かそうとしなくても鈍い痛みが走る。まさかつい先ほどこのようになったはずもないだろう。しかし、だとしてもどうして今までこの激痛に気がつかなかったのか不思議でならない。
 殿がそっと指先で私の手首に触れる。走るであろう痛みに備えて体に力を込めたのだが、一向にあの貫かれるような刺激は訪れない。それどころか鈍痛すら引いてしまった。いまだ腫れは引いていないだけに、奇妙な感じだ。


「もう痛くはないな」

「――はい。あの、もしや、また?」

「あぁ、ちょっと痛みの伝達回路を遮断しただけだ。誰だって痛いのは嫌だろう?」


 つんつんと殿が私の手首を突っつくが、その感触はするものの痛みはやはり訪れない。私が大きな怪我をした時、いつも彼女は痛みを取り払ってくれる。しかし、あくまでそれは痛みがなくなっただけで、怪我がなくなったということではない。だから、殿の眉間の皺は一向に消え去ることはなかった。


「とりあえず、添え木になりそうなものを――」

「用意してありますわ」


 殿が立ち上がろうとすると、その前に天音殿が鈍色の細長い板と包帯を彼女に差し出した。つい先ほどまではそんなものを持っている素振りすらなかったのに、一体どこから取り出したというのだろうか。
 殿はむっと更に不機嫌そうに唇を尖らせたが、何も言わずにそれを乱暴に奪い取る。そうして、黙々と手際よく私の手に板と包帯を巻きつけていく。


「一ヶ月もすれば治ると思いますわ。といっても、完全に元通りになるかは分かりませんけれども」

「気付いていたなら教えろ」

「それは幸村君に悪いと思いましたの。せっかく、貴方と手を繋げて嬉しそうだったのに、それを邪魔するほど私は意地悪じゃありませんわ。幸村君だって、手首の骨折なんて大したことないでしょう?」


 その言葉を聞いて、ようやくいつこの怪我を負ったのか理解した。あの時、骨が砕けるかと思ったのは間違いではなく、確かに折れてしまっていたのだろう。そして、その痛みを天音殿が紛らわしてくれていたのだ。普段、私はそれほど天音殿のことを快くは思っていない。彼女の立ち居振る舞いはあまりに胡散臭すぎるのだ。しかし、今回ばかりは彼女に感謝していた。もし、私が痛みにうめき声でも漏らそうものなら、殿は途端に手を離してしまっていただろう。みすみす彼女との触れあいの機会を、それこそ骨折如きに邪魔されたくはなかった。
 黙して何も答えずにいると、殿が怪訝そうな顔をこちらに向けた。ぴくぴくと唇の端を痙攣させながら、殿はゆっくりと口を開く。


「――まさか、お前」

「まぁ、私ですから」

「妙に説得力があるな」


 殿は隠すことなく大きなため息を吐いた。