雨が外壁を激しく叩く音だけが響いていた。室内の隅には橙色の火がふわふわと浮かんで辺りを照らしている。これは殿が部屋に入った途端どこからともなく現れたものであり、人気のある場所でそういうことをしたがらない彼女にしては珍しいものだと思った。殿は半ば放り投げるように私を室内に押し込むと、そのまま彼女はふいと襖の端に消えた。慌ててその後を追おうとしたのだが、私が襖に手をかけるよりも早く、その隙間からするりと天音殿が姿を現した。彼女は後ろ手にぴしりと音をたてて襖を閉めると、火の玉とは対角線上にある隅に音もなく移動して座った。


「氷でもついでに持ってくるように頼んでおきましょうか?」


 そう言って、天音殿は未だ立っていた私を見上げた。この冷たい体を更に冷やせと言うのかと天音殿の発言に眉を顰めたが、彼女は元々過程をすっ飛ばして結論だけを話すのだとすぐに思い出して、とりあえずそう思った理由を聞くことにした。


「どうして、でしょうか?」

「あらあら、そういえば貴方は新種の人間でしたわね。ということは、痛覚がないのかしら? でも生物なのだから痛覚がないというのは致命的ですわ。――もしや、貴方はただ頭が可笑しくなっただけなのでは? あぁ、別に貴方のことを気が違っていると侮辱しているのではなく、脳に異常があるのではないかと心配しているだけですわ」


 天音殿が何を言わんとしているのか全く分からないのは、それこそ本当に私の頭に異常があるからなのか。落ち着いて彼女の言葉を頭の中で繰り返してみれば会話が成立していないことは容易に分かるが、彼女のすらすらと流れてくる言葉を聴いていると、ともすればそれが正しいものに思えてしまう。その話し方は殿に通ずるものがあった。それにしても、殿はどこへ行ってしまわれたのだろうか。酷く怒っているようだったが、もしや私など放ってどこかへいってしまったのかもしれない。そう考えた途端に、居ても立ってもいられなくなった。天音殿など放っておいて、さっさと探しにいけばよかったと後悔しながら、足を踏み出そうとした。


「それはつまり幸村がキチガイだと言いたいのか?」


 しかし、それよりもはやく殿の声が耳に飛び込んできた。同時に、視界が一瞬で暗くなる。顔にまとわりつく布のようなものを振り払えば、仁王立ちで天音殿を睨みつける殿がいた。天音殿は優雅に笑ってみせる。


「まぁ――そう受け取って貰っても構いませんわ」

「そうかそうか。とりあえず、お前はもう少し分かりやすい話し方を心がけるべきだ」


 殿は呆れたようにため息を吐くとゆるゆると首を左右に振り、それから視線をこっちに移す。何を言われるのかと思わず殿に投げつけられた布を握り締めた。


「とりあえずそれで体を拭いて、これに着替えろ。風邪をひかれたんじゃたまらん」


 そう言ってぐいと差し出してきたのは、藍染めの着物だった。私のことを心配してわざわざ殿が着物を用意してくれたのだと察するとたまらなく嬉しくなる。慌てて礼を述べてそれを受け取る。流石に天音殿がいる前で着替えは出来ず、そそくさと隣の部屋に向かった。
 そっと襖を閉めると、どこからともなくあの炎が現れた。近すぎることもなく、遠すぎることもない丁度いい位置にあるそれは、かすかに上下に揺れていた。ふと思いついてそれに手を伸ばしてみたが、不思議と全く温かみを感じられなかった。思い切って炎の中に手を突っ込んでみたが、なんとなくくすぐったいだけで炎に触れているという感じがしなかった。一体どういう仕組みになっているのかと首を傾げながらも、こんなことをするよりも早く戻ろうと着物を脱ぐことにした。まとわりつく着物は脱ぎづらくてかなわない。褌までもがびしょ濡れで、殿のくれた着替えの中にしっかり褌の替えもあったことに冷たかったはずの頬が暑くなる。
 そうして、着替えを終えて、床に畳んでおいたびしょ濡れの着物を見下ろす。既にそこには水溜りが出来ており、このまま放置しておくのは床を腐らせそうで怖い。かといって、肌触りのいい着物をまた濡らしたくはない。しかし、そうも言ってはいられぬので、女中でも探して押し付けようかと思ってそれを手に取る。水分を含んだ着物は随分と重く、滴り落ちる水滴の音が雨の喧騒の中でもはっきりと聞こえた。


「あぁ、それは私にくれ」


 思いのほか至近距離から殿の声が聞こえて、肩が跳ね上がった。襖を開ける音はしていないはずなのに、そこには戸に手をかけてこちらを見ている殿がいる。どぎまぎとした心臓を宥めながら、着物を渡した。殿はひとつ頷くと、踵を返して再び部屋を出て行った。また天音殿と二人きりなのかと少しだけ憂鬱に思ったのだが、殿は思いのほか早く戻ってくる。早くというよりも、扉を閉めて一呼吸ほどしか経っていないように思えた。彼女は着物の代わりに盆を持ち、そのままどかりと座った。盆の上に載った急須と湯呑みがかちゃんとぶつかる。


「何をしている。早く座れ」

「直立二足歩行は人間の誇るべき特徴ですわね」


 朗らかに笑う天音殿を殿は一睨みして「嫌味のつもりじゃないんだぞ」と低い声で言った。天音殿はあどけない少女のように目を丸くして「そうだったんですの」と、表情とは裏腹に冷めた声で返す。そんな彼女達の間に割ってはいることが中々できず立ち往生していると、殿の鋭い視線が飛んできた。彼女の機嫌を悪くさせたくはなかったので、言われたとおりいそいそと殿の隣に座った。ぴったりと体の側面をつけるように寄りかかると、彼女の体温が伝わってきて気持ちいい。


「おい、誰が隣に座れといった」

「ですが、こうも体が冷えているといつもに増して人肌が恋しくなるのですよ」

「――今日だけだからな」


 ぶっきら棒にそう答える殿の隠しきれてない優しさが可愛らしくて微笑が自然と浮かんでくる。後ろからぎゅうと抱きしめたい衝動に駆られたが、流石にそれは怒られるだろうか。そう思案していると、殿がもぞもぞと居心地悪そうに体を動かした。彼女の顔を覗き込めば、至って真面目な顔で見つめてきた。


「幸村、この体勢は座りづらいし、幸村にとっても接触面が少ないから体をそれほど温められないだろう。だから――」


 そう言って、殿は両腕を広げた。その意味するところがすぐには理解出来ない。というよりも、すぐにある仮説は立てられたのだが、それが現実に起こり得るとは思えなかったのだ。どうしようかと戸惑っていると、殿は呆れたような視線を向けてきた。


「何を呆けている。昔みたいに抱っこしてやるから、さっさとこい」


 確かに私が小さな時には殿の膝の上に座って話をしたりしたこともある。だからといって、今の私は成長しており、殿に抱かれるというのは少し恥ずかしい。どちらかといえば抱きたいのだが、今の殿はそんなことをさせてくれないだろう。
 頭の中を混乱が駆け巡る。石になったように動けないでいると、ぐいと強い力で手を引かれた。体勢が崩れる。前のめりになった私を受け止めてくれたのは、殿の――。


「あらあら、僥倖ですわね」


 厚い布の上からでもしっかりと分かる柔らかなふくらみが顔を包む。何かの花だろうか――甘い香りが鼻をくすぐる。それに混じって微かに漂う汗の香りが艶かしくて酷く私を興奮させた。このままこうしていたいと思ったが、気がついたら咄嗟に顔を離していた。体中の血液が顔に集まってきたようにとても熱い。心臓が耳元で鳴っている。


「す、すみません! あの、その、いや、でも今のは私、悪くないです、よね。あ、でも、けど、怒ってるとかじゃなくて、その、むしろ嬉し――じゃなくて、えーと、あの、ともかく、申し訳ありませんでした!」

「何をお前は取り乱しているのだ。ほれ、さっさとしろ」


 呆れたような目をした殿は再び両腕を広げた。もういっそのこと理性などかなぐり捨ててその豊満な胸に飛び込みたかったが、天音殿がいるのでそれは憚られる。


「あの、流石にそれは――その、何といいますか、やはり、止めたほうがいいのでは」

「何故だ?」


 殿はきゅっと眉間に皺を寄せて、見るからに不機嫌そうだ。このままだとまた腕を引かれそうだ。そして、また不慮の事故が起きるのはとても喜ばしく歓迎できることだが、かといってやはり天音殿の目が気になる。先ほどからにやにやと口元を歪めて、それは楽しそうに私達を見比べている。


、貴方のその胸の脂肪の塊が邪魔だそうよ」


 天音殿の笑い混じりのその言葉を受けて、殿は顔を俯かせて自分の胸をまじまじと見つめている。邪魔なんてことは全くないのだが、ここは黙っていたほうがいいだろう。殿はしばし逡巡した後、真面目な顔で小さく頷いた。


「ふむ、確かに言われてみればその通りだな」

「もういっそのこと、幸村がを抱っこすればいいじゃないの」


 不意に天音殿が真顔に戻ってそう言った。私にとっては願ったり叶ったりであるが、殿はどうやら嫌らしく露骨に顔を歪めた。しかし、私の顔をちらりと見て、手をすっと伸ばしてきた。どこを触ろうとしているのかが分からなくて、思わず体を硬くする。殿の柔らかな指先が首に触れた。その顔が段々と険しくなっていったかと思ったが、すぐに眉尻を下げて少しだけ悲しそうな顔をした。しかし、それもつかの間ですぐにいつも通りのきりりと凛々しい顔に戻ると、腰を浮かせた。


「ほら、幸村。胡坐でもかけ」


 厳しい口調で言われて、反射的にすぐに言われた通りにする。胡坐をかくと殿は足の上にちょこんと座った。こちらを気遣うように体重をかけてきた殿が私の顔を見上げる。痩せているように見えるが、案外肉付きのいい彼女は抱き心地がよく、大きな眼で見つめられると緊張で体が硬くなる。それでも、何とか腕を動かして殿をそっと抱きしめる。温かくて、柔らかい殿の体をずっとこの腕の中にしまっておきたい衝動に駆られた。