空を見上げてみても、灰色に濁った雲の腹しか見えない。その向こうにあるはずの青空は、しかし意地悪な雲によって遮られ見ることすら叶わない。気ままに散歩をしていた私の横を、冷たく湿った風が通り過ぎていく。雨が降ってきそうだ。遠くに聞こえる低い唸り声は、はたして天かける竜のものなのか。そんなことを思いながらも、一方で殿が雨に降られるのではないかと気が気ではなかった。
 ここに来てから、何日ほど経ったのであろうか。殿の作業は順調。この調子なら、二、三日もすれば終わるらしい。それは何よりの朗報であった。上田に来てからというもの、殿はあちらこちらと忙しなく飛び回り、私の相手を全くしてくれなくなった。誰のためかを分かっているだけに、面と向かって不満を垂れることは出来ないが、やはり寂しいものは寂しい。それに退屈でもある。殿以外で気楽に話しかけてくれるのは、信繁とくのいちぐらいなものである。他の者はまるで腫れ物でも扱うかのように私に接する。酷くつまらなかった。
 自分は本来は生きていてはいけない存在だった。仮に存在していたとしても、真田の家の者ではないはずだった。それが何の因果か、真田の苗字を貰い、こうして上田城に顔を出すことを一応許されてはいる。しかし、己が忌まわしい存在であることは拭いきれず、家中の者は決して私に近づこうとはしなかった。別にそのことを気にするほど人間の温かみには飢えておらず、むしろ下手にちょっかいを出されなくて良かったと思えるほどだった。しかし、如何せん暇だ。娯楽には飢えていたのだ。
 ぽつり、と手の甲に冷たい感触があった。そちらを見れば、一粒の水滴が手の甲から滑り落ちて着物に染みを作っていた。空を見上げれば、雫がぽつぽつと落ちてきている。これは大降りになりそうだと、雨宿りが出来そうな場所を探して慌てて駆け出した。その間も次第に勢いを増し、たちまちの内に小雨から豪雨へと変わっていく。雨粒が激しく地面を叩く音と、むせ返るような土の匂いが私を包みこんだ。
 雨はあまり好きではない。殿の機嫌が悪くなるからだ。自然と私の気持ちも落ち込んでしまう。とりあえず、どこでもいいから屋根があるところに行きたい。しかし、生憎人気の少ない森を散歩していたので、人影はおろか建物すら見当たらない。もう全身びしょ濡れだ。体に纏わりつく着物の感触が気持ち悪い。この際、もう雨宿りは諦めてさっさと帰ろうか。これ以上濡れるところもないというほどに、雨に打たれて少し疲れてきた。


「あらあら、風流ね。傘も差さずに雨に濡れられる――。それも自由故ですのね」


 笑いを含んだ声が背中にかかった。今まで何の気配もしなかったのに、唐突に現れたその存在のほうを振り向く。
 そこには朱色の番傘を優雅に差した、妙齢の美人が立っていた。見るからに高そうな紫色の着物を身につけている。着物に押さえつけられているはずなのに、彼女の胸はしきりに自己主張をしていた。彼女は肩の辺りで切り揃えられた艶やかな黒髪を揺らしながら、こちらへ歩み寄ってくる。


「相変わらずですね、天音殿」

「たかだか一週間かそこらで変わりはしないわ。その割に、貴方は可笑しくなったわね。それとも、甘えたい年頃なのかしら?」


 殿の友人である天音殿は、殿に負けず劣らず何を考えているか分からない。殿は長年付き合ってきただけあって、大分何を言いたいか分かるようになったし、殿自身も明快な答えをしてくれる。しかし、天音殿は全くだ。話が突然明後日の方向にいってしまうのだ。だが、どうやらそれが彼女達の間では普通のようであり、殿と天音殿の会話を聞いていると頭が痛くなるほどだった。
 天音殿は私の前に立ち止まると、にこにこと一見人当たりの良さそうな微笑を浮かべている。私としてはここで立ち話をするよりも、さっさと屋根のあるところにいきたい。天音殿は傘があるからいいだろうが、私は今でも雨に打たれているのだ。体温が徐々に奪われて、寒い。しかし、殿の友人である彼女を無下にする訳にもいかず、さっさと用件を聞き出すことにした。


「それにしても、どうしてここに?」

「最も賢い解決方法はそもそも問題を起こさないこと自体ではありません? 例えそれが出来なくとも、少しでも好転させられるように先手を打ちに来ましたの」

「――何か起きるんですか?」

「えぇ、起きますわ」


 そう言うわりに、天音殿は至って落ち着いており、全く危機感を感じない。たとえ何かが起こるのだとしても、それほど大変なことにはなりえないのだろう。ならば、こうしてここで足止めを喰らっているのが腹立たしくも思えてきた。相変わらず雨脚は弱まることを知らず、体の芯まで冷え切り、最早寒いという感覚すら薄れてきた。


「貴方って人間よね?」


 気がつけば、目と鼻の先に天音殿の顔があった。思わず一歩引いてしまう。天音殿は小首を傾げて私のことを見上げていた。そんな彼女の顔は作り物めいて見えるほど美しい。透き通るように白い肌に、高い鼻がちょんとのっている。切れ長の二重の目は、美しく反った長い睫に覆われている。紅をひいたかのように赤い唇がやけに鮮やかだ。しかし、かえってそれが生き物の温かみを感じさせなくて、苦手でもあった。それにしても、天音殿の問いの何と唐突なことだろうか。


「そうですが――」

「じゃあ、新種の人間なのかしら? あぁ、そういえば――」

「天音!」


 天音殿が何かを思い出すように斜め上に視線をやったかと思えば、唐突に右側から鋭い声が飛んできた。聞き覚えのあるその声は、しかし聞いたことのないような苛立ちを含んだ声色であった。


「あらあら、じゃない。お早いご到着ですわね。ところで、今、人類の進化について論じていたのだけれど、貴方の」

「そんなことはどうでもいい!」


 木の葉を踏み散らして、殿が荒い足取りでこちらに近寄ってくる。肩を怒らせ、目を吊り上げた彼女は、鬼ですら素足で逃げ出す迫力があった。天音殿の名を呼んでいたことから、怒りの矛先は多分天音殿に向けられているのだろう。そのはずなのに、こちらまで生きた心地がしない。これ以上体温が下がりようがないと思ったのに、血の気が引くのが分かった。一方で、天音殿は殿のほうを見てまるで童女のように楽しそうな笑みを浮かべている。それは殿が天音殿の着物の襟を掴んでも、微塵も揺らぐことがなかった。


「何しにきた」

「友人と会話に花でも咲かせようと思ったのですけれど、どうやら機嫌が悪いようですわね?」


 殿は隠すことなく盛大に舌打ちをすると、天音殿の襟を離し代わりに彼女の持っていた傘を奪い取った。それをそのまま私のほうに突き出してくる。ようやく雨が遮られたが、既にびしょ濡れのこの体よりも、殿のほうが心配で傘を押し返そうとする。しかし、彼女は頑なに傘を押し付けてきた。


「私は結構ですから、殿が使ってください」

「――お前は一体何だ? そして、私は何だ?」

「え、その、意味が」

「お前は人間だ。たかだかあの細い矢が刺さっただけで死んでしまう人間だ。で、私は妖怪だ。毛の一本からでも体を再生できる妖怪だ。さて、どっちが免疫力が低い? いや、例え病気を患ったとしても、どっちがより重くなりやすい? どっちがより治りやすい? それを考えれば、どうするのが最善か馬鹿でも分かるだろう。さっさと受け取れ。手が疲れた」


 殿は無理やり私の手を開かせると、傘の柄を握らせた。ここで傘を手放してみても、多分泥の上に転がるだけになるだろう。しかし、ここで安々と折れるのは気がひけて、天音殿のほうを振り返ろうとした殿の着物の袖をくいと引っ張った。


「でしたら、二人で使いませんか――?」


 恐る恐るそう言えば、そんなに予想外のことだったのか殿は若干目を見張って、こちらをじろじろと見てきた。あわよくば殿と触れ合えるという邪心を抱いていただけに、それを見透かされたようで少し恥ずかしい。殿は暫し口を閉ざしていたかと思えば、小さなため息交じりに言葉を漏らした。


「いや、いい。お前が使え。そもそも私に雨は何の影響も及ぼさない」


 そう言われて、ようやく気がついた。よく見てみれば、雨粒は殿に触れる寸前に何かにぶつかって地面へと流れていっている。肌の上を滑る水滴などからはその様子はあまり分からないが、彼女自慢の絹糸のように柔らかな髪の毛は未だふんわりと膨らみを保っていた。殿の向こうに見える天音殿も同様だった。
 天音殿は珍しく若干眉間に皺を寄せて、こちらへと歩み寄ってくる。闇色の髪をかきあげる様は、艶めいて見えた。


「それが私の物だっていうところは、どちらも気にしないのねぇ」

「どうせ、そこら辺で盗ってきたものだろう。第一、傘なんているのか?」

「雨の日の様式美ですわ。自由はある程度規制されてしかるべきでしょう?」

「まぁ、概ね同意しておこう」


 殿は天音殿に向かって一つ頷き、それからすぐに顔を顰めてかぶりを振った。「そんなことより、」思い出したように苛立ちを込めた声色で殿は呟く。それから、むんずと痛いぐらい強い力で私の手首を掴んできた。いつもは冷たく感じる彼女の手も、今はほのかに温かい。そして何よりも殿から触れてきたことが嬉しくて、思わず微笑んでしまう。しかし、それも彼女の顔を見ただけで凍ってしまった。
 殿は最早怒りを通り越して、無表情へとなってしまっていた。冷え切った目でこちらを睨み、硬く引き結ばれたは一度舌打ちを漏らしたっきり開くことはない。殿はぐいと私の手を引いて、足早に歩き出す。私が小走りで何とかついていけるほどの速さだというのに、彼女は至って普通に歩いているように見えた。
 手首を締め付ける力は徐々に増していき、彼女の歩みも段々早くなっていく。骨が粉々に砕かれてしまいそうだ。ふとした拍子に肩の関節が抜けそうだ。そんな危機感を抱かせるには十分なほどに荒々しい振る舞いなのに、しかし不思議と振りほどこうとも制止の声をあげようとも思わなかった。
 雰囲気はともかくとして、この状況はまるで恋人同士のようではないか。同じ年頃の男女が手を繋いで歩いているのだ。そう考えただけで、冷え切った体が火照ってくるようだった。