「うーん、それにしても久々にこの格好になったな。何か変なところはないか?」
殿は前足をぐいと突き出して伸びをする。続けて上体を前に出して、後ろ足を伸ばす。そうやって、暫くぶりの狐の体をほぐした後に、ふんふんと体中の匂いを嗅いだり毛づくろいをしたりしていた。その様子をくのいちは目と口を丸くしたまま見つめ、信繁も興味深そうに彼女の一挙一動を観察していた。
身づくろいを整えた殿は元々彼女が座っていた場所に収まる。後ろ足で耳の後ろをかきながら、くのいちの方を横目で見る。
「と、まぁこれが証明だ。これで足りぬというのなら、信繁にでも憑いて腹踊りでもしてみせるか?」
「私ではなく幸村にすればいいじゃないですか」
「幸村なら私が命じれば腹踊りぐらいするさ」
くのいちが疑うような目でこちらを見てくる。そんな彼女ににこやかに笑いかけた。それを受けて、くのいちは笑顔を若干引きつらせた。
殿が言うのであれば、腹踊りでも女装でも何だってするだろう。それに対して周りがどう思うかなんて、それほど気にならない。殿さえ満足させられればそれでいいのだ。
「いや、まぁ、そこまではしなくても結構ですけど――でも、化け狐ってもっとこうおどろおどろしいものじゃないんですか?」
「つまり、こんな姿か?」
殿がそういい終えるか終えないかの内に、火が爆ぜるような音と同時に煙が巻き起こった。霞がかった煙の向こうに何かとても大きな物が蠢いているのが見える。低いうなり声が地を這ってこちらへと伸びてくる。霧にも似た煙が薄れていくにつれて、ぎらぎらと血走った二つの眼がこちらを値踏みするように見つめているのが分かった。尖った毛に覆われた巨体と、九つに分かれた尻尾が部屋中を覆い尽くさんばかりに広がっていく。荒い息が血生臭い風となって体を過ぎていった。
「これならどこからどうみても九尾の化け狐だろう」
いつもの殿の声とは違い、背筋を凍りつかせるような威圧感に満ちた声色だった。くのいちは言葉も出ないようで、ただこくこくと首を縦に振るだけだった。
殿はくのいちのそんな様子に満足そうに笑う。その笑い声ですら息を潜めなければならないような緊張感を感じさせる。殿も怯えるくのいちに気付いたようで、改まったように咳払いをする。そして、再びあの爆ぜる音が聞こえた。
「失敬。少し調子に乗りすぎたようだ」
室内を支配していた禍々しい気配が突如として消え、代わりに傾国の美女とも思える女性が現れた。狐の姿も美しく高貴に思えるが、やはりこの殿の姿のほうが見慣れていて落ち着ける。
「と、まぁあんな感じで化けることも可能だ。これでも足りぬというなら、もっと凄いものにでも化けてみようか?」
「――いえ、もういいです」
未だ驚きから立ち直れていないらしいくのいちがかろうじてそう返事をした。殿は少し残念そうに「そうか」と呟き、それから気を取り直したようにくのいちのほうを改めて見た。
「さて、そろそろ話を本題に戻そうか。今分かったように世の中は意外と広い。肌が黒かったり、髪が金色だったり、目が青い人間がいるように、お前達が言うような妖怪のような存在もいる。で、肝心要のモノについて、だな」
「そのモノっていうのは、モノが正式な名前なんですか?」
「ものという言葉は非物質的、不可視的存在にも適用されるだろう? この名称は我々が便宜上用いているだけだ。まぁ、常々紛らわしい名前だとは思っているんだがな。しかし、実際のところモノが何であるか明確に定義されている訳じゃあないから、致し方ないといえばそうなのかもしれないな」
そこで殿は一旦言葉を区切った。すかさず信繁が杯に酒を注ぐ。殿は感謝の言葉を述べ、乾いたであろう喉を潤すために酒を口に含んだ。それから、一つ息を吸う。
「とはいえ、我々の共通認識としてモノとは、負の感情の集合体のようなものだとされている。感情というものは、刹那刹那に生まれ消えていくものだ。しかし、中には消えず残り続けるものがある。そういうものは厄介だ。なぜなら、大抵残留思念は負の感情が多い。それらは溜まり淀み、一体化して悪しきものとなる。そして、それらは人間に対して悪影響を与える」
「人間だけ? 不公平じゃないですか?」
「人間はほどよく頭が良くて、ほどよく無知だからな。付け込みやすいんだよ。まるで自分達がこの世で一番偉くて賢い生き物だと思っている。だから、騙されても気づかない。例えば不意に沸き起こる怒りや憎しみが操られての結果だと気がつけない。それどころか、それらの感情を疑心暗鬼にかられて助長することもある。全く持って阿呆としか言いようが無い」
からからと笑う殿の顔に、悪意は全く浮かんでいなかった。しかし、そんな彼女を見るくのいちの笑い顔は引きつっている。信繁は相変わらず飄々とした顔つきで、酒を啜っていた。以前は人間を貶める発言をするたびに不愉快そうに顔を歪めていたが、どうやらもう慣れたらしい。それが少しだけ煩わしく思える。しかし、ここでそのような発言をするのはあまりに空気が読めていない。だから、口を閉ざして酒を飲んだ。
「アレらは意識があるかないかといえばあるのだろう。といっても、ごくごく原始的な意識だがな。つまり、種を存続させようという本能だ。しかし、アレらに生殖機能なんて高等なものはありはしないし、細胞分裂も不可能だ。そもそも実態がないのだからな。だから、アレらはそれ自身が生まれた時と同じような状況を作り出し、仲間を増やそうとする。つまり、人の悪意を増長させるんだよ。元々、アレら自体が悪意の塊な訳だから、その程度造作も無い」
「でも、例えば凄く怒ったとしても、その感情はやがては消えるんですよね。だったら、それほど被害が出るとは思わないんですが」
「ふむ、では例えば武田信玄が民草を省みず、戦に明け暮れる暴君となったらどうする? その影響力は計り知れないじゃないか。そして、アレらは影響力の大きな人間に憑くのが好きなんだよ。お陰様で乱世は一向に終わらない。まぁ、我々にとっちゃあ関係ないことなんだがな」
くのいちは暫くの間眉間に皺を寄せて、殿の語ったことについて考えている風だった。そして、突然細めていた目を大きく見開き、殿に向かって身を乗り出す。
「ちょ、ちょっと待ってください! 今の言い方だと、まるで今のこの乱世はそのモノによって引き起こされているという風に取れるんですが――」
「そういう意味で言ったんだが?」
そのことに問題でもあるのかというように殿は首を傾げる。一方のくのいちは息巻いて話し出す。
「じゃあ、乱世は終わらないんですか? 例え、憑いた人が死んだとしても、別な人が憑かれる――人間じゃどうしようも出来ないじゃないですか!」
「だから、私がいるんだよ」
殿のその言葉に、一瞬ぴたりと世界が停止した。彼女の発した言葉がくのいちにとっては、予想もしていなかったことなのだろう。彼女はその大きな眼を見開き、そしてゆっくりと一回瞬きをする。殿は彼女の視線を真正面から受け止め、深く息を吸って話し出す。
「私はそのモノたちを集めて日本全国津々浦々を旅しながら周っているんだ。ただ、面倒なのは人間に憑いてるモノは一体化していて分かりづらいし、引き離しづらい。だから、その人間が死んだその瞬間に取り押さえるのが一番良いんだが――肝心要のその人物が分からない」
重く息を吐き肩を下げる殿の顔には、僅かな疲れと苛立ちが浮かんでいるように見えた。場はそれきり静まり返る。夜のざわめきが遠くに聞こえる。くのいちは難しい顔をして腿の上の手を睨みつけ、信繁は杯の中で揺れる水面を静かな目で見ていた。そんな中で、殿がふっと表情を緩める。
「まぁ、その内見つかるだろう。協力者もいるしな。それと、真田家に関してだけはアレの心配はいらない。一応、私は幸村の保護者な訳だし、だったらこやつの生家の面倒事もついでに対応しておこうと思ってな。といっても、所詮は裏の世界のことだから、運が悪くはならない程度のご利益しかないぞ。あ、そうそう、もう聞いたかもしれんが暫くの間ここにいることになったから、よろしく頼むな」
殿がそう言ってにこやかに笑う。雰囲気が少しだけ和らいだ気がした。しかし、信繁が眉を顰めて首を傾げる。
「もしや、何か悪いことでも?」
「いや、今の真田家は丁度落ち目だろう? そこいらにうじゃうじゃと悪いモノが一杯いてな。小物だが侮れはしないからな」
「――武田のために動くつもりはないのですか?」
「ないな」
信繁の淡々とした感情の見えない言葉に、殿は首を左右に振ってはっきりと断言した。信繁が唇を固く引き結ぶ。
「ここはお前達人間の世界だ。自分の尻拭いぐらい自分でしろ。私が助ける人間は幸村とこやつに親しい者だけだ」
殿の毅然とした声に、信繁は諦めた風にゆるゆると首を左右に振った。
「――やっぱり、ですか。人間嫌いは直らないのですね」
「あぁ。当然だ」
そうきっぱりと言う殿の落ち着いた笑い顔は普段のそれと変わらない。だからこそ、彼女の言葉が嬉しくて仕方が無かった。殿が大切に思っている人間は私だけなのだとそう思えて、胸の奥底から迸る感情が顔の筋肉を弛緩させる。ふいとこちらに視線を向けた殿が途端に顔を歪めた。
「――気持ち悪い顔だ」
「ふふ、ありがとうございます」
殿の罵りもあまり気にならない。むしろ、余計に胸をくすぐられる。そう思う一方で、真田という姓を持つ自分が少し恨めしい。あの立場にいなければ殿と出会うこともなかったのだろうが、彼女が私以外のことを気にするのが気に食わなかった。
「それにしても――そんな恐ろしいものが存在していたなんて、怖いですね」
くのいちが蝋燭の明かりが届いていない暗闇を落ち着きなさげに見回しながら、自分の体を抱いて腕をしきりに摩る。そんなくのいちの様子を見ている殿の目は、とても楽しそうににたにたと細められている。曲がりなりにも妖怪である彼女にとって、やはり人間の恐怖の感情というものはご馳走のようだった。だからこそ、くのいちを安心させるような言葉は言わない。しかし、信繁がそのように振舞う訳がなく、優しく微笑みながらくのいちに声をかける。私に向けるそれとは違い、えらく柔らかい声色だ。
「警戒を怠らなければ、そうそう憑かれることはない。ですよね、殿?」
信繁にそう振られて、殿は残念そうに笑みを引っ込めた。彼女としてはもう少し楽しんでおきたかったらしい。しかし、すぐに気を取り直したようで、信繁の問いに首肯した。
「別にそれほど恐れることはない。自分の芯をしっかり持っていれば大丈夫さ。具体的に助言するとしたら、笑え。沈んだ顔ばっかりしてると、自分だけじゃなくて周りにも悪影響だ」
「そういう割りに、殿は滅多に笑いませんけどね」
どちらかといえば仏頂面のほうが見慣れている身としては、彼女が実行しているようには思えない。そう口を挟めば、殿は途端に顔を顰めてこちらを見る。
「誰かさんのせいで、笑うに笑えん。というか、私が並み大抵のモノで取り殺されることもないだろうし、むしろそのモノの影響でお前が早死にしてくれれば嬉しいのだがな」
「そんなに邪魔なら、貴方の手で殺してくれてもいいんですよ?」
「やめてくれ。お前なら私を取り殺すことが出来そうだ」
「何だかんだ言って、私のこと認めてくれているんですね。嬉しいです」
「――なぁ、くのいち。真田の奴ってのはこんなのばっかりなのか?」
苦虫を噛み潰したような険しい顔をした殿が、ふいとくのいちの方を見る。心なしか私と距離を取っているように見える彼女は、突如話を振られて目を丸くした。
「へ、は? あ、信繁様はそんなでもないですけど――」
「腹の底で何を考えているか分かったものではありませんよ?」
「いや、信繁様はそんな人じゃ――ない、ですよね?」
私の言葉に否定こそしたものの途中で不安になったのか、くのいちは信繁のほうをおずおずと見る。心配そうな彼女を安心させるように信繁は微笑みかけた。
「さぁ?」
首を傾げてそう言う信繁の表情はとても清々しい。そんな信繁の様子にくのいちは困ったような引きつった笑いを返した。
双子だからこそ、なんとなく分かる。信繁も絶対に私と似たような性格だ。矢印の向きこそ違いはあれど、その大きさに大して差はないだろう。後はそれを隠すか表に出すかだ。私は最早殿以外の目は気にしていない。いや、むしろ殿の反応すらお構いなしなところがある。その理由の一つは私がどんな虚言妄想をひけらかしたとしても、殿が私を絶対に見捨てられないという自信があるからである。事実、今まで悪態をつかれたことはあっても、捨てられたことはない。殿の甘さには本当に感謝している。それを口にすることは絶対にないが。
「――お前も大変そうだな」
「いえいえ、あなたに比べたらそんなでもないですよー」
「いっそのこと、交換しないか? 見た目はそっくりなんだから、誰も気付かないだろう」
「遠慮しておきます。中身は違うじゃないですか」
「むしろ、同じだったら交換する意味がない」
そう言って殿は憂鬱そうにため息を吐いた。