「という訳で、お前には二、三週間ほどここに逗留してもらう。既に昌幸殿に話はつけてある。まぁ、兄弟同士の親睦を深めるにはいい機会だろう」
そう言って、殿はようやく口を閉じた。お茶の一つでも出してあげたいところだったが、生憎その用意は手元にない。信繁にでも頼んでこようかとしたが、それを見越したように殿が声をかけてくる。
「あぁ、別に気にするな。確かに口は渇いたが、別に脱水症状を起こして死ぬこともない。そんなことよりも、お前はさっきの説明で納得してくれたか?」
「理解はしましたよ。ただ、どうして真田家のためにそこまでしようとするのかが分かりません。負い目でも感じているのですか?」
殿のしようとしていることは、別段難しいという訳でもなくましてや命をかけるまでもなく済ますことが出来るものだ。しかし、何分手間がかかる。事実、二週間もここで足止めをされるであろうことは彼女自身が目算した結果からも明白だ。二週間という時間は短いようで長い。こんなことで時間をかけるのは利口とは思えなかった。
殿はしばらくの間逡巡した後、ふっと自嘲気味に口元だけで笑う。彼女の目線はどこか遠くを見ているように思えた。
「――まぁ、そうだな。お前の言うとおりだよ。もし私が真田と何の関係も持っていなかったら、私は何もしなかっただろう。どうせ何をしようとしまいと、お前達と関わりが持てる訳ではないからな。しかし、逆に言うと関わりがあるということは即ち影響を与えるということだ。それが良い結果であれ、悪い結果であれ、だがな。だったら、どうせなら良い結果のほうがいいだろう? まぁ、こちら側は言うほど切羽詰った状況ではないしな。というよりも、手がかりが皆無でどうしようもないといったほうが正しいか。動きがあるまではどうせ何も出来んよ」
「後手に回るしかないと?」
「悔しいがそういうことだ。地道に片っ端から可能性を潰していってもいいが、気が遠くなるほどの時間がかかる。特に乱世なんて人の出入りが激しすぎてかなわん。何もしないよりかはマシ程度だ」
「何だか――今までの私達の旅が無駄だと取れる言い回しですね」
殿は私の言葉を受けて、けらけらと愉快そうに笑う。
「確かにこの十年は無駄足だったし、下手したら後十年ぐらいは時間を潰すことになると思うぞ。目に見えて変化することのほうが世の中稀だろう? それぐらいの期間はどうせかかるさ。ふむ、しかし――私にとっては百年ですら取るに足らんものだが、お前にとってはそうではないだろうな。だから、別に私に付き合ってくれなくたって構わないのだぞ? 限りあるものは有意義に使え」
「貴方の隣にいる時間が、私にとって何より幸せな時間です」
「お前はそれしか知らんからそう言える。何事も経験だ。お前もたまには羽目を外してみろ。女でも買ってみたらどうだ。未だ女体を知らんなどといったら笑われるぞ?」
「では、殿は幾らで買えるのですか?」
「幾らでも。幸村がつけたいと思った値段をつけるがいいさ。つまり、私の価値はその程度ということだ」
そう言われたら、冗談でも安易に値段を決めることなんて出来なくなってしまう。口をぴったりと閉ざせば、殿は目を細めて喉の奥で笑う。ひとしきりそうした後に、徐に咳払いをした。天井を見上げて、声をかける。
「くのいち、だったか? 気を遣わせて悪かったな。信繁も呼んできてやってくれ」
「ありゃ、ばれてましたか」
「匂いがしたからな」
くのいちが天井の板の隙間から頭をぶら下げてこちらを見る。よもやそんなところにいるとは思っていなかっただけに、驚いて彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。殿の言葉を受けてか、くのいちは己の腕の匂いをしきりに嗅いでいたが、私の視線に気付くとにこりと笑いかけてきた。それに愛想笑いを返す。
「それじゃ、信繁様に伝えてきますねー」
くのいちはそう言うと、板を戻す音すら立てずに消えてしまった。その忍びの技に思わずため息を漏らす。
「――凄いものですね」
「相当訓練を積んだのだろう。信繁は良い忍びを持ったな。後は半身たるお前がここに残ればさらに安心できる」
「信繁のことは彼女に任せておけば、それで十分ですよ。私がいても喧嘩になるだけです」
「しかし、忍びはあくまで従者だからな。信繁が道を踏み外そうとも、何も言えぬかもしれんぞ? その点兄弟なら何でも言い合えるだろう?」
「揉めに揉めた末に、幸村なんていなかったことになるかもしれませんがね」
幸村という存在はもとより公には認められていない。だから、私が死んだところで何も不都合はありはしない。そして何らかの事情により信繁が死んだ場合、私が信繁に成り代わることは不可能ではないだろう。それほどまでに私とあやつの容姿は似ている。相手の顔は即ち鏡に映った己に他ならないのだ。どちらにせよ、真田幸村はあまりに希薄な存在だった。
自分には価値すらないのだと、己を嘲り笑う。殿は片眉を持ち上げて不機嫌そうに顔を歪めていたが、唐突にぐいとこちらに上半身を乗り出してきた。
「幸村、私はお前が好きだ」
突拍子も無い殿の告白に、一瞬何を言われたのかすら分からず呆然としてしまう。そして、その意味を理解すると同時に自分の耳を疑った。彼女の瞳が真っ直ぐに己の瞳を覗き込んでくる。吸い込まれそうな、不思議な魅力を持った瞳だ。
「お前よりも優れている者ならそれこそ星の数ほどいるだろう。しかし、お前ほど私のことを思ってくれる者はそうそういない。だから、私はお前が好きだ。他の誰でもない真田幸村が好きなんだ」
殿は一息にそう言うと、深く長く息を吐いた。重い沈黙が訪れる。彼女はそれ以降口を開こうとしないし、こちらはこちらで幻覚を見ているのではないかと己の頭を疑ってしまう。
暫く見つめ合っているとはいえないほどに殺伐とした睨み合いをしていたが、殿が不意にそっぽを向いて苦々しげに顔を歪めた。
「――慣れないことはするもんじゃないな。お前はとりあえずその阿呆面を引き締めろ」
殿はそう言って、私の頬を抓る。彼女の伸びた爪が食い込んで、痛い。手を離してくれた後でも、じんじんとした痛みは残った。つまり、ということは――。
火が出ているのではないかと思えるほど、瞬時に顔全体が熱くなった。口から言葉にならない声が出てきそうになって、自分の手で口を塞ぐ。手の冷たさが心地よいほどに顔が火照っている。何だか頭がくらくらしてきた。
「――本当に、戻ってきて良かったんですか?」
頬を冷たい夜風が叩く。風の吹いてきた方向を見れば、襖に手をかけて苦笑いを浮かべる信繁がいた。その後ろには少し焦ったようなくのいちが、徳利と杯がのった盆を持って立っている。思わず舌打ちをしそうになった。そんな私とは違い、殿は邪魔者共に微笑を向けた。
「別に構わん。むしろ、有難いぐらいだ」
「殿がそういうのなら、そうなのでしょうね」
信繁も彼女に笑みを返し、ちゃっかりとその隣に座った。くのいちはというと、私に対して申し訳なさそうに頭を下げて、暫く悩んだ後にいそいそと私の隣に座った。信繁の鋭い視線が飛んでくるが、それに気付かない振りをしてくのいちが渡してくれた杯を持つ。すかさずくのいちが酒を注いでくれた。
「わざわざ有難うございます」
「いえいえ、これも忍びのお勤めですからー」
「いや、それって何だか違いませんか? 全く信繁は忍び使いが荒いですね」
「ところで! 幸村は酒を飲んでもいいのか?」
信繁が私とくのいちの会話を邪魔するかのように、一際声を大きくして私に尋ねてくる。そういえば、先ほど失態をおかしただけにまた酒を飲むというのは憚れる気がする。信繁に見せ付けるためとはいえ殿の機嫌を損ねるのは好ましくない。彼女の顔色を伺えば、普段のそれと変わりない。いつの間にやら信繁が注いだらしい酒が入った杯を傾けながら彼女は答えた。
「ふむ、まぁ別に気にするほどでもあるまい。私がいるからどうとでもなる。というか、私がいればアレは近づきすらしない」
「さっきからずっと気になってたんですけれども、アレって何のことなんです?」
くのいちが首を傾げて、誰にとも無くそう質問する。その問いに誰も答えず、室内に一瞬静かになる。くのいちは慌てて取り繕うように笑顔を浮かべ、まるで気にしていないとでもいうかのように顔の前で両手を振る。
「あ、答えづらいようなら結構ですので」
「――何だ、信繁。話していなかったのか」
「要らぬ心配をかけさせるべきではないと思いまして」
「そういう言い方をされると、ちょっと気になります。私は信繁様の忍びです。主の憂慮は従者の憂慮でもあります」
「では、すみませんが殿に説明を頼んでも?」
信繁の頼みに殿は大きく頷き、それから杯をぐいと煽った。気持ち前のめりになってくのいちの方を見る。ぺろりと唇を舐める鮮やかな赤色の舌が光る。
「くのいちは幽霊は信じるか?」
「――いえ」
「では、妖怪は?」
「少なくともあたしはそんなもの見たことありません」
「そう、それが普通。しかし、だからといって存在しないことにはならないだろう? ないことの証明は非常に難しい。存在しているなら連れて来て、これが美濃国大野郡の某の嫁になった化け狐だとでも言えばいい。だが、逆にその狐がいないことを証明しようと思ったら思ったら日本全土をくまなく探しまわらねばならない。それは物理的に不可能だ」
「まぁ、確かにそうですけれども。でも、そんなの現実的に――」
「有り得るんだよなぁ、それが。という訳で、少なくとも化け狐が存在していることの証明だ」
殿のにんまりと笑う口端がどんどんと裂けていく。それにつれて鼻先が伸び、一方で体は縮んでいく。彼女の髪色と同じ飴色の毛が皮膚を覆い、蝋燭の光を反射してすべらかだ。鋭く伸びた爪の輝きは鈍らずに光っている。尾てい骨の部分が一本の尻尾となりするするとしなやかに天に伸びていく。
そうして、殿がいた場所には一匹の狐が座っていた。
「見事な阿呆面だ」
前足で顔を洗いながら、くのいちを見て殿は愉快そうに笑った。