頬に鋭い痛みが走った。鼓膜を叩く乾いた音が、一瞬だけ己の意識を途切れさせる。瞬きをするその間に、世界は一変していた。
真っ先に視界に飛び込んできたのは、ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎だった。障子はその向こうの闇の色を濃く映していたが、それでも光があるということにほっと安堵する。しかし、それはすぐに間違いであることに気がついた。
己の顔の一尺ほど上に逆様の顔が浮かんでいる。病人のように青白い肌の顔が闇の中からにゅうと突き出ている。研ぎ澄まされぎらぎらと輝く二つの瞳はまるで肉食動物のようである。獲って食われる。咄嗟にそう思った私の両頬にひやりと冷たいものが触れる。視界の端に青白い手がちらつく。死人かと思えるほどに冷たい指先が頬の上を滑り――
「っ!」
摘まれた頬をぐいと横に引っ張られる。肉ごと持っていくつもりかと思えるほど強い力だ。先ほどまで真一文字に結ばれ動くことのなかった唇が、ゆっくりと開いていく。息を吸う音が聞こえる。そして、言葉が吐き出された。
「馬鹿者が」
低く落ち着いた声は耳によく馴染んだ。これは殿のものである。畳の上に寝転ぶ私の顔を上から覗き込む彼女は、静かながらも怒っているように見える。眉間にいつもより一本多く皺を刻んだ彼女は、口を閉じるか閉じないかのうちに再び声を発する。
「長旅で体に疲労が蓄積されているというのに、酒を飲むとは阿呆のすることだ。例え飲んだとしても自分の酒量ぐらい知っておいて、それ以上は飲まないようにするものだろう。だから、あの程度のモノに呑まれるのだ。あんな低俗極まりないモノにまで嗤われるとは情けない。その癖、自分は一人前だと思っているから性質が悪い。――なんだ、その不満そうな顔は。それほど慢心してないとでも言いたいのか? どちらにせよ同じことだ。どんな道にも終わりは無い。修行とはこれで十分だなどと思わず、一生の間に日々仕上げていくものだ。そもそもお前は修行のために私の元にいるのだろう。その結果がああでは、昌幸殿にも顔向け出来ん」
「父はそれほど気にしないと思いますよ」
延々と続く殿の小言を遮ったのは、私によく似た声だった。ちらとそちらを見れば、人当たりのいい笑みを浮かべた信繁がいる。その隣につつじ色が見えて、その先を見るのを躊躇してしまう。しかし、存外人の視界というのは広いもので、くのいちの姿を視認してしまう。だが、杞憂であったらしく彼女の顔はきちんとした顔であった。心配げにこちらの様子を伺う彼女は、私と目が合うと曖昧な微笑を浮かべた。
「――それはともかく! お前は一体いつまで私の膝の上に寝転がるつもりだ!」
鋭い声と共にさっきまで摘まれていた両頬をぴしゃんと平手で叩かれる。殿の言葉を聞いて、ようやく彼女に膝枕されていたことに気付く。後頭部にあたる柔らかな感触にたった今まで気付けなかった鈍感な自分を殴りたい。殿に肩を掴まれ無理やり起こされたのでは、その感触を堪能することもできない。無意識のうちにため息を吐いていた。それを見逃してくれなかった信繁が、口に笑みを貼り付けて声をかけてくる。
「残念だったな」
買い言葉は返さずに、殿と向き合うように正座する。信繁とくのいちは私のほうを向いて右手側に座っているものだから、何だか監視されているようで座りが悪い。
急に頭を高くしたからなのか、くらくらとする。抜けきらぬ酒も相まって気分が悪い。酒の飲みすぎて眠りこけてしまったのだろう。覚えている限りでは明るく騒がしい外の様子も、今ではひっそりと静まり返りすっかり夜の様相を呈していた。殿がいつ戻ってきたのかも定かではない。何たる失態であろうか。しかし、殿がそんなところに怒っている訳ではない事は、先ほどの口ぶりからして明白だった。
「調子はどうだ?」
「――少し頭痛がしますが、概ね問題ないです」
気遣うようなその言葉も素っ気無く言われてしまえば物悲しく感じる。殿は小さく相槌を打ちながら、きちんと正座をしなおす。彼女の射るような視線がこちらに向くかと思ったが、それは信繁のほうに向けられた。
「せっかく殿も戻られたのですから、もっと良い酒でも持ってきましょうか。くのいち、いくぞ」
「すまないな」
去り際にちらりと私に視線を寄越して、信繁は室から出て行く。くのいちも不安げな様子でこちらを伺いながらも無言でその後を追った。
そうして、この六畳ほどの室内に私と殿だけが残ることとなった。
人数が半分になっただけで、途端に室温が下がったような気がする。殿が口を閉ざしたままなので、こちらからは何も言えずただじっと膝の上で握る拳骨を睨む。背筋は凍るように寒いのに、手のひらは汗で湿っていた。
「それで、だ」
殿の声が響く。やけに落ち着いていて、その声色は平坦で何の感情も読み取れない。
「もうこの際先のことは水に流すことにする。勧められたら飲まぬ訳にもいかんだろうし、その相手が信繁だったら尚更だ。お前ら兄弟といったら、お互いの欠点を探り合うのが好きだからな」
呆れたように息を吐く殿の顔に、怒りの色は浮かんでいないようだった。ただいつも通り仏頂面でこちらを真っ直ぐに見ているだけである。酷く叱責されるだろうと思っていただけに、拍子抜けする。とはいっても、依然として緊張は解れず、むしろ彼女の予想外の行動のせいで調子を乱される。
「ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
「そう思うなら、今後同じ過ちは犯すなよ。人間には学習能力があるんだから、それぐらい簡単だろう? 一度の失敗は仕方ないということも出来る。ただ、二度目は別だ。分かったな?」
「はい。申し訳ありませんでした」
「分かったから、もう謝らんでいい。聞いていて辟易してくる」
「ですが、私は本当に申し訳な」
みなまで言い切る前に、頬に熱い痛みが走る。耳に飛び込む肌を打つ音は、つい先ほど聞いたような気がする。じんじんと痛む頬とは対照的に冷たい指先で、殿は再び頬をつねって左右に引っ張る。
「謝るな、と言ってるだろう? これで忠告は二度目だ。次言わせたら、もっと酷いことをするぞ」
「すみ」
思わず謝罪の言葉が口をついて出てきそうになったが、殿の指が容赦なく頬に食い込むその感触が言葉を飲み込ませた。殿の鋭く釣り上がった双眸を見ながら、訴えかけるようにそれを見返しながら口を閉ざして頭を上下に振る。頬をつねる指はそのままであったために、皮膚が引っ張られて痛い。
少しの間、殿はじいと私の瞳の奥底を見透かすように見ていた。そして、その視線のしつこさの割にあっさりと頬を解放してくれる。その時になって離れていく指先を惜しく思った。
「さて、本題に入りたいと思うんだが――お前、ここに残る気はないか?」
「ありません」
間を置かずにそう答えると、殿はぱちぱちと数度瞬きをして大きくため息を吐いた。こればかりは何を言われても、何をされても折れる気は無い。その意思を表すように、背筋を伸ばして彼女を挑むように見据える。
「愚問だったな」
「えぇ。全くです」
「――兎にも角にも、お前が何を言おうと暫くの間はここにいてもらうぞ」
「暫くとはどの程度の期間を指すのですか?」
「ざっと百年ぐらいでどうだ。私は約束を守るぞ。きっかり百年後に迎えに来よう」
「それで、殿。次は何処に向かうのですか? 今はまだ暖かいですが、これから寒くなるのですから西のほうに行きませんか? それとも、また戦場を渡り歩くのですか? なれば、天音殿に教えて貰わねばなりませんね。殿は普段はそれなりに大人な対応が出来るのに、天音殿相手ではまるで幼子のように口喧しくなりますからね。気をつけねばなりませんよ。さて、では支度をしてくるとしましょうか。殿はさくさくと物事を進められるのが好きですからね。それほど時間は取らせませんので、どうぞお待ちください」
殿に微笑みかけながら一礼して腰を浮かせようとしたのだが、膝の上に手を置かれて足を上げることが出来ない。殿は口端をぴくぴくと震わせながらも、何とか笑顔の形状を維持しようとしていた。
「悪かった。機嫌を直せ」
「別に怒ってなどいませんよ?」
「その笑い方は、間違いなく怒っている」
「殿にも学習能力はあるのですね。驚きです」
「おいおい、幾らなんでもその物言いは無いだろう。本当に置いていくぞ」
「ならば、私は腹を割いて亡霊となり貴方を追いかけましょう」
殿の固まった笑顔はついに砕け散った。彼女はその存在上、所謂幽霊の類が専門分野だ。その上で亡霊なぞは歯牙にもかけず笑い捨てている。そのことを知っているからこそ、あえてその言葉を口にした。腹の中のこのどす黒い感情に、聡い殿ならば気付くだろうと踏んで。
真顔に戻った彼女はその真摯な瞳でこちらを見る。まるで値踏みするような視線を、しかし私は平然と受け止めることが出来た。慣れていないことだからこそ、人は戸惑うのだ。普段からその時を想定していれば、臆することなど何も無くなる。鳥の鳴き声も木々のざわめきすらも聞こえない静寂が訪れる。殿はたっぷりと時間を置いた後に、そろそろと唇を舌で湿らせて口を開く。
「先ほどのは完全にこちらの失言だった。すまない」
「――分かってくれたのならいいですよ」
ゆっくりと腰を降ろせば、殿は安堵したように一つ息を吐いた。それは私が一応は機嫌を直したからなのか。はたまた私が本当の意味でのお荷物になるのを防げたからなのか。自然と己を嘲るために唇が歪に歪んでいく。どちらにせよ精一杯な私が、あまりに惨めで格好悪く思えた。
「なんだ、人の悪い笑みを浮かべてー。まーた、丸め込めたって私のこと笑ってるのかー」
「まさか、そんなことはありませんよ。私が殿のことを侮辱したことなどないでしょう?」
「ふむ、まぁ確かにそうだな。お前の過保護っぷりは余りあるぞ。正直億劫だ」
「それでも、私を捨てられない貴方は優しい人ですね」
「――さっきの言葉、修正をしておこう。侮辱したことはないが、馬鹿にされることはよくあるな。少なくとも私はそう受け取った。だから」
「それが殿にとっての真実、ですよね?」
お株を奪ってしまったからなのか、殿は拗ねたように頬を膨らませてそっぽを向いた。そんな子供染みた真似が可愛らしくて、しかしここで笑おうものなら更にへそを曲げられることは目に見えているので、すっかり逸れてしまった話を元に戻すことにした。
「それで、お話というのは何なのでしょうか?」
「あぁ、それがだな――」