このようにまともな食事を取ったのは何時以来だろうか。目の前に置かれた盆の上の料理を見て、思わず息を吐く。玄米はその一粒一粒がふっくらと炊き上がっているし、糠の味噌汁からは湯気にのって美味そうな香りが鼻をくすぐる。他に梅干と茄子の煮物もあった。自然と唾を飲み込む。
「いただきます」
信繁が両手を合わせたので、私も食前の挨拶を述べて軽く礼をした。信繁は茄子に箸を伸ばしながら、ちらりとこちらを見た。小言の一つでも言われるのだろうかと考えながら、私も煮物を口に放り込む。甘辛い味が口全体に広がった。久々に味の濃いものを食べたので、いつまでも口の中に留まっているような感じがする。それを流し込むために味噌汁を口に含んだ。
「不味いか?」
信繁は箸の間の茄子を見つめながら、唐突にそう尋ねてきた。椀を盆に戻して一呼吸置いて言葉を返す。
「いや、ただ味が濃かっただけだ」
「私には良い塩梅だと思うのだが」
「味付けの薄いものばかり食べていたからな――そもそも、味付けという概念すらなかったような気がする」
玄米を左の手のひらに載せてから食べる。こうして米を食べるのも久方ぶりだ。噛むたびに広がる甘さを感じながら顔を上げる。そうすると、僅かに目を見開いた信繁と視線がかち合った。
「なんだ」
「面倒見の良い殿ならばそういうところはきちんとしてそうだと思っていたのだが」
「普段は嫌というほどお節介だぞ。ただ、今回は機嫌が悪くてな。食事は山で採れたものだけで済ましたんだよ」
「随分と野性味あふれる生活だったようだな。――で、何をやらかした?」
よもや「そなたの心配をしなかったので怒られた」などと言えるはずもない。それではまるで殿が信繁のことを気にかけているようではないか。想像するだけでも嫌で仕方なく、自然と顔を歪めてしまう。信繁は愉快そうに目を細めて、隠すことなく笑い声を漏らす。
「今のそなたの顔こそ、まさに苦虫を噛み潰したような顔なのだろうな。その顔、殿の前ではしないほうがいいぞ。随分酷い顔だ」
「そのような心配は無用だ。そなたの前だと自然とこうなってしまうだけだ。時に、くのいちの前でもこういう態度ではないだろうな。嫌われてしまうぞ」
「そこでどうしてくのいちが出てくる。全く会話に脈絡の無い奴だな」
「私の中の殿の立ち位置と信繁のそれは似ている気がしてな。何、勘違いだったのならすまない」
今度は信繁が口を噤む番だった。その気持ちは分からなくもなかった。誤魔化すために嘘を吐くことは容易い。しかし、それを明確に言葉にすることはやはり嫌なのだ。しかも、相手は自分と瓜二つの人物である。まるで水面に映る自分に言いきかせているようで、余計に不快な気持ちになる。
少し言い過ぎたかとも思ったが、やられた分をやりかえしただけだと思えば罪悪感は薄くなる。むしろじっと睨みつけてくる信繁を見ていると、もう少し追い詰めたほうがいいような気すらしてきた。お互い無言で食事を続ける。ぴりぴりとした空気が室内を満たし始めた。それを吹き飛ばしたのは、件の彼女だった。
「ちょっと信繁様! 仲良くって言ってましたよね?」
くのいちがいつの間にか障子を背にして座っている。開いた音がしなければ、そんな光景すらもなかった。忍びというのは普段から神出鬼没なのだろうか。
くのいちは唇をへの字に曲げて、刺すような視線を信繁に放っていた。彼女が手に持つ盆には徳利とお猪口が置かれている。それをばんと畳の上に置いて、信繁のほうに詰め寄った。
「それはあくまで戻ってくるまでの間だろう。それ以後もそうしろと言われた覚えはない。そもそもそなたは主に口答えできる立場か――」
「あれこれ言われるのが嫌なら、さっさと暇を出せばいいじゃないですか」
信繁がここで啖呵を切れば面白かったのだが、生憎あやつはそうしなかった。ただ眉間に深く皺を刻み込んで、口を硬く閉ざすだけである。くのいちはそんな信繁に呆れたのか、一つ息を吐いて頭を左右にふるふると振る。それから気を取り直したようにこちらに柔らかい笑みを向けた。
「幸村様、そんなに高級なものでなくて申し訳ないんですけれども」
徳利の載った盆をすすっとこちらに寄せてくる。それはいいとして、問題なのはお猪口の数だ。三つあるとはどういうことだろうか。目聡くそれを見つけた信繁はぐいと片眉を持ち上げた。
「よもやそなたも一緒に飲む気ではあるまいな?」
「勿論そうですよ。男二人でむさ苦しく酒を飲んで何が楽しいんですかー」
「確かにくのいちの仰るとおりですね。華は無いに越したことはないですから」
「ほぅ。殿から乗り換えるのか? といっても、このじゃじゃ馬、そなた如きに乗りこなせるとは思わないがな」
「そうそう、その様って方、随分と話題に上がりますけどどんな人なんです?」
くのいちはさっそくお猪口に並々と酒を注ぎながら、目を爛々と輝かせて私のほうを見てきた。殿の魅力を余すところ無く説明しようと口を開いた矢先、信繁がそれを遮るように言葉を発した。
「こやつに聞くのは止めておけ。それこそ三日三晩語り続けるぞ」
「失礼な。その程度で足りる訳がなかろう。――いや、そもそも言葉で表現しきれるはずがないのだ。そうしようとすることすらおこがましい。殿ほどの方を」
「どうやら信繁様の言うとおりみたいですね」
今度はくのいちが邪魔をしてきた。反射的に睨みつければ、くのいちは爽やかな笑顔でそれをかわす。私にお猪口を押し付けて、「ささ、一献どうぞ」と酌をする。そうされては飲まない訳にはいかず、ぐいとそれを煽った。
「お、いい飲みっぷり! さぁ、どんどんいっちゃってください!」
「時に、幸村。そなた、酒は強いのか?」
「殿の晩酌に最後まで付き合えたためしはないが、あの方はたいそう酒に強いからな。平均程度ではないか?」
「ならばいいが。あまり飲みすぎて酔っ払うなよ」
「信繁様は酔うと泣き上戸になりますからね。幸村様もそうなるんですかね?」
くのいちの笑い混じりのその言葉は一見私に向けられているのだが、確実に信繁に向けて放たれた言葉であった。事実、彼は口端を引きつらせているくのいちの前で随分な失態を犯してしまったことがあるのだろうか。なれば、そこを突かない道理はない。
「私は悪酔いしたことはないですから、それは分かりませんよ。――それにしても、信繁はそこまで酔いつぶれたことがあるのだな。酒に弱いと、この先大変ではないか?」
「生憎、羽目を外すことは滅多にないんで、心配は無用だ」
「でも、二度あることは何とやら、といいますよね?」
くのいちの追撃に益々機嫌を損ねたらしい信繁は、乱暴にお猪口を手に取って彼女に突き出す。くのいちは呆れたような笑みを浮かべながらも、軽口も叩かず静々と酒を注いだ。信繁は仏頂面をしながら、一気に酒を飲み込んだ。くのいちはすかさず酒を注ぐと、私の空になっていたお猪口にちらりと視線をよこして、こちらにも入れてくれる。そして、ちゃっかり自分の分も注ぎ足すのを忘れない。
そうして、くのいちが話題を振り信繁と私とが嫌味の応酬をしあうといった調子で会話に花を咲かせる。短くない時間そうして、大分酔いも回って来た頃だった。
ぐにゃりと世界が歪んだような気がした。今まで何故気がつかなかったのか不思議なくらい、室中の空気が淀んでいる。この立方体の空間の底には、へどろにも似た纏わりつくような気持ち悪い何かがあった。得体の知れないそれは、少しずつしかし確実に数を増やし、こちらに迫っていた。全身からぶわりと汗が吹き出てくる。手の中のお猪口を握り締める。体を硬くして、息を潜める。
「どうしました?」
くのいちが私の肩に触れて、こちらを覗きこむような仕草をする。その顔を見て、叫び声をあげそうになった。しかし、実際には息を吸ったきりそれを吐き出すことも出来ない。
くのいちの顔は、目と口の部分にぽっかりと穴が開いていた。それだけである。のっぺりとした卵のように白い肌に、底が見えない暗い穴が三つ。まん丸のその穴から目を逸らせない。体の自由がきかない。心臓だけが狂ったように騒いでいる。
右目の穴の奥で何かが蠢く。
それは這いずり出てこようとする。
黒い触角のようなものが穴の縁に手をかける。
ぽとりと、それは私の膝の上に落ちた。
肌から伝わる湿った感触に、背骨の中を気持ち悪いものが迸る。脳天にぶち当たったそれは、頭の中で反射を繰り返し脳みそをぐちゃぐちゃにかき混ぜる。穴からはぼたぼたと虫によく似たそれが零れ落ちてくる。手の甲がむず痒い。その時になって、ようやく私は己の体を取り戻すことが出来た。口から叫び声にならない声を漏らしながら、部屋から飛び出し駆け出す。どこに向かえばいいのかなど分からない。ただ、あの場から一秒でも早く一寸でも遠くに離れたい。それなのに、気持ちとは裏腹に体は言うことを聞いてくれない。足がもつれて上手く走れない。そうしている間にも、穴から虫があふれ出して、今にも己を飲み込もうとしているような気がして、それが余計に私を焦燥に駆り立てる。
あ、と思ったときには既に遅かった。何に躓いたのかは分からないが、既に傾きかけている体をどうすることも出来ない。刹那、両膝と両手に鈍い痛みが走る。苦痛に顔を歪めている暇などなかった。早く体勢を立て直さなければ。そう思って立ち上がろうと思っても、上手くいかない。粘っこい何かが両足に纏わりついて離れない。焦りばかりが募る。先ほどから痒くて仕方が無い腕を爪を立てて掻く。その痛みが何とか理性を保たせてくれた。
あぁ、それにしてもここは何処なのだろうか。このように黒い色など見たことも無い。一寸先の景色ですらよく見えない。しかし、不思議なことに己の体はよく見えた。まるで発光しているかのようである。むき出しの手の甲がうねっているのがよく見えるのに、その隣の妙に湿っぽく柔らかい地面は見えないのだ。あぁ、あぁ、どうしてこんなに腕が痒いのか。手の甲から始まったそれは、どんどんと広がり肩甲骨のあたりまで広がっている。痒くて痒くて仕方ない。引っかくのを止められない。
その時だった。ぺろりと掻いていた肌が捲れた。それは細長く千切れて、地面に落ちる。暴かれた私の中身は、黒かった。血肉の赤ではなく、黒い小さな無数の塊が走り回り、それらは再び皮膚の下に潜り込んで、私の奥深くへと侵入しようとしてくる。肌が波打つその下で駆け巡る虫が透けて見えるようだった。
皮膚の下で蠢き、肉を食い漁り、脊髄を走りぬけ、眼球を押しのけ、脳髄を犯す。痒みは次第に耐え難い激痛に変わり、虫を少しでも掻き出そうと躍起になって己の体を毟る。しかし、幾ら掻いてもぼろぼろと黒い塊が溢れてくるだけで、痛みは少しも緩和されない。慟哭は真っ黒な虫となって吐き出される。口から、目の間から虫がぼたりぼたりと押し出されていく。それらはまるで外気を嫌うかのように私の中に潜り込もうとする。全身を壊されるその痛みに、いっそ意識を手放してしまいたいと願う。しかし、身を焼かれるよりも辛いその痛みのせいで、意識はしっかりと覚醒しているのだ。
闇の中であらん限りの叫び声を張り上げる。そして、それはすぐに虫の大群によって埋め尽くされた。