鋭く風を切って突き出される槍を、横に飛びずさって避ける。こちらも負けじと繰り出した槍は、しかし届く前に弾かれてしまう。思わず舌打ちをしそうになったが、首筋に突きつけられた槍のせいでそれも出来そうになかった。前に立つ男は口端を持ち上げる。
「私の勝ち、だな」
「それぐらいでふんぞり返ってどうする。むしろ、私に負けることがあれば武門の名折れだ」
「その割には、随分と悔しそうだな」
勝ち誇ったように笑うその顔に悪態の一つでも投げつけてやりたかったが、それはこやつの言い分を認めてしまうことになるので我慢する。そんな私の心情を察してか、こやつは更に笑いを深めた。己と寸分違わぬ容姿を持つだけに、余計に腹立たしい。
半ば引きずられるようにして上田に連れて来られたのが昨日のことで、鍛錬場とは名ばかりの山を切り開いて作ったようなここに来たのは少し前のことである。雅殿は何やら用事があるようで陽が昇る前からどこかに姿を隠してしまっていた。一人ではすることもなく、居心地の悪さに耐えかねて城下にでも行こうかと思ったところに、この男――信繁に声をかけられたのだ。曰く、手合わせ願えないだろうか、と。
額から滴り落ちる珠のような汗を、手拭いで拭う。それを首にかけながら、槍を地面に投げた。それから、両手を組み腕をあげて背伸びをした。全身の筋肉が引き伸ばされて心地良い。頭の中できっちり五秒間数えて、それから全身を脱力させた。これをもう一回繰り返す。
「――何だ」
「そなたこそ何をしている」
「すとれっちだ。こうすれば、疲労回復を早めることが出来るらしい」
そう言いながら、上半身を前に倒す。やり始めた頃は地面から一寸ほど上辺りを彷徨っていた指先が、今は指先を地面に押し付けるまでに至っている。ふくらはぎの下方からかかとに向かって走る踵骨腱が、ほどよく伸ばされた。黙々といつも通りの手順をこなす。信繁はじぃとこちらを見ていたかと思えば、私の動きを真似しだす。一通りやり終えると、最後にもう一度伸びをして一つ息を吐いた。信繁はきっちりそこまで模倣して、徐に口を開いた。その目は楽しそうに笑っている。
「殿の教え、か?」
「何だその顔は。気持ち悪い」
「あぁ、やはりそうなのか。彼女の言うことならば、真実その通りなのだろう。ならば、何かと役に立つであろうから、私も一度ご教授願おうか――」
「わざわざ殿に手間をかけさせるぐらいなら、私が教えてやろう」
「何が悲しくてむさくるしいお前に教えを請わねばならないんだ。そんなのこちらから願い下げだ」
「そうか。なら、大人しく諦めるんだな」
「どうしてそうなる。何日かはここにいるんだろう? なら、全く暇が無いということもあるまい。泊まらせてやっている礼にでも、殿に手取り足取り教えてもらおう、と。ただそれだけのことだが?」
ここで威勢良く「ならば出て行く」と言えないのが悔しい。信繁ならば容赦なく追い出されるのが目に見えている。それは殿のためには何としても避けたい。かといって、信繁が殿に近づくのをみすみす見逃すような真似を出来るはずもなかった。かといって、何か良い策があるかといえば、そうでもなく。ただ眉間に力を込めて、恨みがましく睨みつけることしか出来ない。ぐるぐると渦を巻く私の暗い心情を見通してか、信繁は唇の片端を持ち上げた。
「あ、信繁様はっけーん!」
どのように目の前の障害を消そうかと頭を悩ませていると、後ろからきんきんとした声が聞こえてきた。殿のそれとは違い、雰囲気が若々しくて、故に騒がしくも感じる。頭にきんきんと響くその声の持ち主は、いつの間にやら信繁の隣に立っていた。彼女が足を止めるまで一切その姿を視認することは出来なかった。ただ、頬を風が撫でただけである。
信繁と同じか或いは下の年齢であろう彼女は、女性らしい女性であった。露出の随分と多いつつじ色と白を基調とした服を身に纏った彼女は、栗色の髪を左上で一つに纏めて結わえている。くりくりと大きな瞳からは愛嬌の良さが伺える。頬はうっすらと桃色に色づき、女性らしさを強調していた。風に靡くつつじ色の襟巻きが目に付く。どこかでこれに似たものを見た気がするのだが、それが何であるかは思い出せなかった。
彼女はこちらを興味深そうに見つめながら、口を開く。
「幸村様、ですよね? 私は信繁様の忍びのくのいちと言います。以後、お見知りおきを!」
「では、くのいち殿とお呼びすればいいのでしょうか?」
「忍びに名前は必要ありませんから。あぁ、それと殿なんてつけなくていいですよ。忍びは道具です。そのように丁寧な扱いなんてしなくて結構ですよ」
まるでそうであることが当然であるとでもいうかのような、その口ぶりに思わず閉口してしまった。己の社会的役割をそのまま呼ばれるのは、寂しいように感じる。しかし、そう思っているのは私だけのようで、くのいちは笑いながら話を続けた。
「いや、それにしても、お二人ともそっくりですよねー。仲もよろしいんですか?」
「そんなことはありませんよ」
「私とそなたの意見が合うとは奇遇だな」
「それは嬉しい限りだ」
お互い口だけで笑いながら、表面上は和やかに会話をする。しかし、どうやら孕む悪意を覆う膜は薄かったようで、くのいちは若干引きつった笑みを浮かべていた。
「くのいちも大変だな。このように陰湿な男の下で働かざるを得ないとは」
「殿も随分とご苦労なさっているだろう。このように粘着質な男に付きまとわれているなんて」
「いやはや、随分と仲がよろしい様で」
「どこが」
ぴったりと私と信繁の言葉が重なった。咄嗟に信繁のほうを見れば、視線がぶつかり合う。嫌味の一つでも言おうと思ったが、信繁も口を開きそうで出来ない。あやつもそう思ったのであろう。信繁も真一文字に引き結んだ口を緩めようとしなかった。そうして、暫しの膠着状態に陥る。それを打ち破ったのは軽快な笑い声だった。
「やっぱり仲いいじゃないですか。流石は双生児なんですね。息がぴったり」
腹を抱えて笑うくのいちに思わず顰め面を浮かべれば、彼女は「ほら、同じ顔してますよ」と更に肩を震わせる。結局何も言い返せずに、私達はくのいちが笑っている様を微妙な顔つきで見守っているしかなかった。
「それで、そなたは何のために来たのだ」
信繁が仏頂面をしてそっけなくそう言う。くのいちは途端に笑みを引っ込めて、信繁に詰め寄った。きりりと釣り上がった目からは、怒りの感情が読み取れる。
「何のためってそんなの信繁様のために決まってるじゃないですか! 信繁様が誰にも言わずに勝手に出て行ってしまうから心配したんですよ! 貴方はもう少し上に立つものとしての自覚を持ってください!」
くのいちの可憐な容姿とは不釣合いなほど、恐ろしい剣幕に信繁だけではなく私までもが圧倒されてしまう。信繁は視線を右往左往させて明らかに狼狽しているようだった。
「――すまなかった」
もごもごと口の中で何かを呟いて、ようやく吐き出した言葉は謝罪だった。他に言いようがあるだろうにとは思うのだが、己があのように殿に問い詰められたと考えたらそれは出来そうにもなかった。結局のところ、くのいちの言うとおり私と信繁とは似ているのだろう。
くのいちはまだ何か言いたげな様子だったが、私の手前のせいか一応は矛を収めたようだった。そうして、先ほどの信繁に対するそれとは一転してにこやかな笑みをこちらに向ける。
「ところで、幸村様。そろそろお腹が空く頃合じゃありませんか? そろそろ昼餉に致しませんか?」
「確かに腹が空いてきましたし――では、そうさせてもらいますね」
朝からひたすらに槍を振るっていたので、流石に空腹になっている。腹の虫が騒ぎ出さないのが不思議なほどだ。くのいちが「了解しました」とふんわり笑ったので、私も微笑み返す。彼女は今度は信繁のほうに厳しい顔を向けた。
「信繁様もちゃちゃっと食べちゃって下さいね。お二人分、用意しときますんで」
「ちょっと待て。私はこやつと顔を付き合せて飯を食べなければいけないのか」
「ご兄弟なんですから、それくらい当然じゃないですか」
「それではせっかくの飯も不味く――」
信繁はそこで言葉を失った。くのいちが私に背を向ける格好で、信繁のほうに向き直ったので彼女の表情は定かではなかった。しかし、信繁の顔色から察するに想像を絶するような顔をしているのだろう。
「信繁様、私先に戻りますので、お二人で仲良く帰ってきてくださいね?」
「あ、あぁ。分かった」
くのいちの諭すようにゆっくりと優しい声色が逆に怖い。そんな彼女と真正面に向かい合っている信繁は、私以上に恐怖に身を震わせているのだろう。それでも何とか返事をする辺りは、伊達に武士ではない。
くのいちは満足げに一つ頷くと、くるりとこちらに振り返って頭を下げた。どうやら般若の面は取ったようだ。
「では、私は一旦失礼しますね」
そう言って、くのいちは襟巻きを翻して姿を消した。信繁はそれを見届けてから、こっそりとため息を吐く。彼も彼で苦労しているらしい。そう思えば、くすくすと笑いが込み上げてくる。隠すことなくそれを露にすると、信繁は鋭い視線を投げかけてきた。
「――行くぞ」
「あぁ。恐ぁい従者に叱られるといけないからな」
くのいちに釘を刺されたからなのか、信繁はこちらを睨みつけるだけに留めて足早に歩き出す。少し拍子抜けしながらも、これ以上喧嘩を吹っかけることもなく大人しくその後を追う。
信繁が身に纏う赤備えの鎧の上に引っ掛けた着物の裾が風に靡く。それを見て、ようやく既視感の原因を思い出す。信繁の着物とくのいちの襟巻きの模様が一緒なのだ。そのことに気付くと同時に、直感が告げたそれに思わず頬が緩んでしまった。運悪くそれを信繁に見られてしまい、怪訝な表情をされる。
「何だ、気持ち悪い」
「いや、ただ、そなたも中々隅に置けない奴だと思ってな。苦労するだろう」
「――そなたほどではないさ」
信繁はそう言い捨てて、先ほどよりも足早に去っていく。普段山道を歩きなれているので、それでもさほど苦も無くその背を追った。