「――おい」


 まるで深く暗い水底から引っ張りあげるかのように、凛と張った声が私の意識を浮上させた。
 伸び伸びと伸びだされた枝に生い茂る葉は、段々と緑を増してきている。風が吹くたびに涼やかな音を立てて、葉は太陽の光を反射させた。目を細めて、その眩しさに慣れようとする。そうして、ようやく声がした方を向いた。
 粗造りな床机に座る彼女は、前かがみに腿の上に肘をついている。組んだ両手の上に顎をのせて、遠くを見ている。伏せられた睫は長く、綺麗に反り返っている。くっきりとしたその横顔に目を奪われていると、彼女が不意に視線だけでこちらを見た。視線と視線とが重なり合う。その途端に胸の奥がざわついて、咄嗟に視線を逸らしてしまう。彼女が未だこちらを見ている風なので、視線を右往左往させる。
 透き通るように青い空には、ふわふわと柔らかそうな白い雲が幾つか浮かんでいる。こんなにいい天気だからと、茶屋の表に置かれた床机のうちの一つに座ったのだ。私達の間には団子と串が載った皿と緑茶の入った湯呑みが置かれている。ほとんど減っていないこちらの茶に比べて、彼女のそれは二口三口分ぐらいしか残っていない。団子の串も彼女の側にばかり置かれていた。


「目が覚めたか」

「寝て、いましたか?」

「ああ、それはもうぐっすりと。よく倒れこまないものだと関心するほどだったぞ」


 乾いた喉を潤そうと口に含んだ茶はすっかりと冷めてしまっていた。その茶に負けないぐらい冷たい汗が背中を伝う。手の中の湯呑みを握りしめた。


「何、気にすることはない。時間は有限だが、余裕がない訳でもない。それに、ここ数日歩きっぱなしだったからな。疲れて当然だよ」

「すみませんでした」

「謝るぐらいだったら、辛い時には素直にそう言え。こんなところで眠っても疲れは取れんだろうが。――今日はもう休むことにするか」

「いえ、私のことはどうかお気になさらないでください。殿の足枷になりたくはないです」

「ならば、大人しく休め。私に気苦労をかけるな」


 きっぱりとそう言われて、言葉に詰まってしまう。納得は出来ないので何か言葉を紡ごうと決心して殿のほうを見たのだが、その言葉は押し込められてしまった。彼女が団子を私の唇に押し付けてきたのだ。


「ほれ、さっさと口を開け。食わねば死ぬぞ」


 大げさな。そう言おうと思って口を開けば、団子が容赦なく奥まで侵入してきた。むせ返りながら非難の意を込めて殿をちらりと一瞥する。彼女は満足げに目を細めて、まるで見守るかのように私を見つめていた。だから、浮かんできた小言は団子と一緒に飲み込まざるを得なかった。
 もっちりと柔らかいながらも歯ごたえのある団子は、べたつかない仄かな甘みのお陰ですんなりと胃に収まった。冷めていても渋みのある茶との相性も良く、改めて殿の嗅覚の鋭さには驚かされる。彼女が選ぶ茶店が外れたことは全くない。殿自身の料理の腕は壊滅的なのに、食に関する敏感さは流石と言わざるを得ない。件の彼女は最後の団子を口に放り込んで、可愛らしく頬を緩めている。思わずくすりと微笑みを零せば、彼女は大きく一つ咳払いをして表情を引き締めた。


「で、だ。丁度宿場町にいることだし、今日は大人しくどこかに泊まろうと思うんだが、一つ問題がある。それは単に私の計画性の無さが原因なんだが――路銀が少ないんだ。それで、幸村が一人で宿に」

「嫌です」


 皆まで言わせずきっぱりとそう言いきると、殿は形のいい眉を顰めた。


「私が働いている間、お前はどうするんだ。まさかそこいらで待っている、だなんて言わないだろう。そんな危険なこと、私は許さないぞ」

「では、その仕事の手伝いをさせて貰います。それに、お言葉ですが私はもう成長したのですから、いつまでも子ども扱いをしてほしくありません」

「そう言われても、私にとってはお前はいつまで経っても幼子のようなものだからな。というよりも、年齢差を考慮すると幼子そのものだ。だから、どうしても心配してしまうんだよ」

「何だか、暗に頼りにならないといっている風に聞こえます」

「確かにお前は役には立たないし、もとより期待もしていない。しかし、何も利害関係だけで私達は付き合っている訳ではないだろう。私はお前に、さっさと親離れし家に帰って欲しいとしか思っていないよ」


 殿は伏目がちに地面を睨んで、それから小さく息を吐いた。
 彼女の一番の悩みの種が、己自身だということは自覚している。私がいるから、殿の行動が大きく制限されていることも知っている。だからといって、彼女の元から離れる気はさらさらなかった。そのことに気がついている殿は、しかし小言を言うに止まっている。殿ならば私に気付かれないように逃げ出すことも出来るだろうが、それをしないところが彼女の甘いところである。私を子供に見ているからこそ、安易に見捨てられないのだ。その甘さに付け込まないとこうして殿の隣に居座り続けていられない、己の不甲斐なさにこちらも自然とため息が零れていた。


「この会話をするのは何度目になるんだろうな」

「もう随分と繰り返していますよ。それこそ耳にたこができるぐらいに」

「それは良かった。いい加減言うことを聞いてくれると助かるんだが?」

「私は貴方の言うことは概ね聞くつもりです。ですが、それだけは叶えられません。私が貴方の元から去るのは、死んでからですよ」

「お前なら死んでも亡霊になって憑きそうだがな」


 殿はくつくつと喉の奥で笑い声を立てた。彼女は亡霊の存在を信じていないのだ。だから、こうして笑っていられる。それが面白くなかった。眉間に皺が寄る。そんな私をちらりと横目で見て、殿はより一層笑いを深くした。


「すまん。別にお前のことを悪く言ったんじゃないよ。だから、いつまでもそう難しい顔をするな。辛気臭い顔をしているのは私だけで十分だよ」

「それはすみませんでしたね。常々ご迷惑をお掛けしているようで」


 自分でも驚くほどに、冷たさを孕んだ声が口から出ていた。殿は僅かに顔を曇らせて、しかしすぐに取り繕うように口元だけに困ったような笑みを浮かべた。


「別にさっきのは嫌味で言ったつもりじゃないんだが――うん、もうこの話はやめにしよう」

「吹っかけてきたのはそちらですよ」

「意地が悪いぞ、幸村。とにかくお前は大人しく、宿で私の帰りを待っていてくれ」

「どうしても、私に手伝いはさせられない、と?」


 殿の顔をじろりと睨みつければ、彼女は明らかに笑顔を引きつらせた。それから、気まずそうに視線を地面に移し、暫く躊躇った後に口を開いた。


「幸村にはあまり見せたくないんだよ。お前がそうなったのは、私の所為でもあるし。うん、だから、つまり、私はお前を守らなきゃいけないんだ」


 自分に言い聞かせるように、殿はゆっくりとそう言った。彼女が睨んでいるのは地面に転がっている石なのか、あの日の鈍色に光る刀なのか。


「私の不手際が無ければ、本当ならお前は立派な武士として名を轟かせていたかもしれないんだ。信繁が実際にそうなったことを考えると、その可能性はとても高い。何せお前達は元は一人だったんだから。それが今はどうだ。方やあの甲斐の虎の懐刀といわれた程の将で、方や畜生の供だ――」

殿」


 尖った声で名前を呼べば、彼女はびくりと肩を跳ね上げてこちらを見た。大きく見開かれた眼の底は暗く淀んでいる。それが徐々に引いていくとともに、殿の顔に浮かぶあらゆる感情も引いていった。やがては無表情になり、ぽつりと呟く。


「すまん。取り乱した」

「いえ、構いませんよ。――ただ、いつも言っている通り、己のことを畜生などと卑下するのは止して下さい。私にとっての貴方はとても大切な方なのですから、そのように言われると悲しくなります」

「――あぁ、すまなかった」

「これも何度も言っていますが、私は殿のことを恨んでなんかいませんよ。むしろ、感謝すらしているほどです。だって、あの時ああして出会っていなければ、私達は出会えなかったのですから。それに、信繁だって大変なようですよ? 長篠の戦で主家を失ってしまって」

「ちょっと待て。今、何て言った?」

「ですから、先日の織田徳川の連合軍との戦で武田家は大敗を喫した、とこの間天音殿からお聞きしたのですが」


 殿の顔つきは見る見るうちに険しいものとなっていった。何が彼女の琴線に触れたのか分からずに首を傾げていると、唐突に着物の襟を引き寄せられた。その勢いで額がぶつかって、目から火花が迸る。くらくらと揺れる視界の中で、釣り上がった殿の目だけがぎらぎらと光っていた。


「どうして早く言わない!」


 張り上げた声は、怒りに染まっていても濁りがなくて綺麗なものだった。しかし、それに聞き惚れている余裕はなく、ぐいぐいと首を締め上げられる苦しさにもがきながら、何とか言葉を搾り出す。


「言ったところでどうにかなるのですか?」


 殿はぎゅうとより一層眉間に皺を寄せる。しかし、それは一瞬のことで、すぐに仏頂面に戻ったかと思えば、襟をようやく開放された。乱れた呼吸を落ち着かせている私と対照的に、殿は立ち上がって通りを歩き出す。説明も何もなしの唐突なその行動に面食らいながらも、慌ててその背を追う。隣に並んでも歩く速度を緩めようともこちらを見ようともしない彼女に、疑問を投げかける。


「何処に行くのですか!」

「上田に決まっているだろう」

「此処からはかなり距離がありますよ。大丈夫なのですか?」

「山を突っ切れば何てことはない。食料は現地調達だ。今更付いて来れないなんて言わないだろうな」

「それはもちろんですが、そういうお気遣いは」


 続けようと思った言葉は、殿の鋭い視線によって舌の上に縫いとめられてしまった。ぴたりと足を止めた彼女は、一歩こちらに詰め寄ると、私の鼻先にぴんと伸ばした人差し指を突きつけた。


「血縁の者の危機なのだぞ。心配ではないのか?」

「信繁のことは気にかかっていますが――」

「私の邪魔はしたくない、か?」


 殿から立ち上るぴりぴりとした緊張感に、私はただ首を縦に振ることしか出来なかった。


「さっきも言った。余裕なら十分あるんだ。この程度寄り道に過ぎない。要らん心配はするな。お前はただ私の言う事を聞いていればいい」


 そう言って、彼女はちょんと鼻先を突いて、それからすぐに踵を返して歩き始めた。先ほどよりも幾分か歩みが遅くなっている。それでも早歩きなのに変わりはないが。


「どうして人間は、こうも情が無いんだ。一族の一大事に駆けつけずに、暢気に茶を啜るなんぞあり得ん。そもそも同じ種族同士で争うこと自体信じられんよ。全く持って人間は野蛮で愚かだ――大体、天音も天音だ。何故私に教えてくれないのか」

殿に余計な心労を煩わせたくなかったのでは――」


 猛烈な勢いで小言を吐き出す殿に、恐る恐るそう声をかければ、きっとこちらを睨みつけてきた。


「そもそも! 幸村が早くに言ってくれればよかったのだ。お前も随分と薄情な奴だな」

「信繁は元気にやっているそうなので。真田家自体に関心は無いですよ。私はもうあそことは関係のない存在ですから」


 殿は少しの間だけ目を伏せて、口の中で何事かをもごもごと呟く。しかし、すぐに突き抜けるように真っ直ぐな視線をこちらに向ける。


「何はともあれ、急ぐぞ」


 そうして、宿場町の寂れた木戸を抜けた。太陽は惜しげもなくその陽光を私達に降り注ぐ。遮られることのないそれは暴力的なまでに照り付けてくるが、天気が崩れるほうが厄介だ。だから、天に祈る。その機嫌を悪くしないように、そして出来れば殿の機嫌も直して欲しい、と。