落ちているのか、上がっているのか、はたまた止まっているのかすら分からない。
私は気がついたら、真っ暗闇の中に放り出されていた。どうやら今度こそ死後の世界らしく、なんだか体が安定しなくふわふわしていた。試しに、逆さまになってみると、むしろそれが普通のように感じられた。上も下も右も左も、何も区別がつかない。また自分の体すら見えない。この暗闇に取り込まれて、そしてただ漂っているだけのようにも思えた。
しかし、当然こんなところで黙っていても暇になるだけで、私は当ても無く漂うことにする。
見えない手足を動かしてみれば、なんとなく動いているような気がする。もしかしたらその場にとどまり続けているのかもしれないが、景色が代わり映えしないのでそれすら分からない。
漂っていても何も変わらず、しかし大して疲れを感じないので私は尚も歩き続けた。
そして、ようやく何かを発見した。最初、それはあまりに遠すぎて小さな点にしか見えなかった。しかし、近づくにつれそれが何かはっきりとしていく。
暗闇の中で道しるべのように淡く発光していたのは、場に似合わず純和風なふすまであった。
どちらかというとドアのほうがしっくりくるのだが、そんなのはただの私の価値観に過ぎない。
私はようやく暇をつぶせそうなものを見つけたと嬉々としながら、それでも少しの警戒心からそのふすまをそっと開いた。
そして、驚きで固まってしまう。ふすまの向こうにいたその人物も驚いてこちらを凝視していた。
「!」
「志村さん!」
私たちはほぼ同時にお互いの名を呼んだ。もう二度と会えないと思っていた人との衝撃的な再会であった。
ふすまを行儀悪くも横に思い切り払う。すぱんと響いたいい音を聞きながら、志村さんに半ば詰め寄るようにして近づく。
「どうして、こんなところにいるんですか!」
「お前こそどうしてここにいるんだ!」
ここが死後の世界なら志村さんがいるなんておかしい。私はそんなこと望んではいないのだ。大前提である私の能力が本物ではなかったのなら仕方が無いのかもしれないけれど、しかしそんな言葉で片付けていいことではないのだ。
激しい自己嫌悪に駆られていると、ふと頭に温かい感触を感じた。俯いていた顔を上げてみれば、優しい顔で笑っている志村さんが私の頭を撫でてくれていた。
胸に熱いものが込み上げてきて、私はまた俯いてしまう。
「良かった。……お前も生きていたんだな」
「へ?」
志村さんが言った言葉の意味が分からなく、私は顔を再び上げた。なんというか、自分でも忙しないと思う。
しかし、それよりも先ほどの志村さんの台詞が気になった。私と彼の間で大きな食い違いが起こっているような気がする。志村さんは不思議そうな顔をしながらも、再び説明してくれた。
「お前も、元の世界に戻る前にハルアレとかいう奴に連れてこられたんだろ?」
「ハルアレ……?」
「いかにも」
私でも志村さんでもない声が聞こえて、私は飛び上がった。志村さんは素早く私を自分の背へと回す。そして、私が入ってきたのとは違うふすまのほうを見る。その体の緊張がすぐに和らいだのが分かって、私は志村さんの影からそちらを見てみた。
そして、息を呑んだ。そこには、あの朽ち果てた神社で出会った一組の男女がいた。あの時は顔がわからなかったし服装も違うものだったが、私の直感がそう言っていた。
二人は私達と向き合うように座ったので、私も志村さんの右隣に座る。どうやら、私の左斜め前に座るこの男性の名前はハルアレというようだ。正面に座る女性の名は知らないが、とても柔らかな笑みを浮かべていた。
「改めまして、私はハルアレと申します」
「その妻の三遊にございます」
「志村だ」
「あ、えっと、です」
二人が深々とお辞儀をして名乗り、また志村さんも軽く会釈して挨拶をしたので、私も慌ててお辞儀をする。
そんな私の所作が面白かったのか、二人は笑みを深いものにして、かつ私の全身を眺めている。悪意等は感じられなかったが、こうも見つめられると居心地が悪い。
「本当に、大きくなって」
三遊さんが慈しみを込めたため息を零すように呟いた。
その言葉に私は疑問を持つ。これでは、どこかで会っているかのようだ。確かに、神社であったがその時から私が成長したとは思えない。
そう頭では思っていても、心はそれを否定した。私はこの二人と深いつながりがあるんだとそうもう一人の私が言っていた。そして、そのもう一人の私が表に出て、勝手に言葉を紡いでいた。
「……お母さん」
自分でも聞き取れるか聞き取れないか分からないほどに小さな声であったが、どうやら三人にはしっかりと届いていたらしく、彼らは目を丸くして驚いていた。
私は取り繕うように苦笑いを浮かべて、何か弁解めいたことをしようとしたが、それも突然三遊さんが泣き出したことにより止めてしまう。
三遊さんは着物の裾で目元を隠し、それでも泣いているのが分かった。ハルアレさんが尚も驚いたような顔をしてこちらを見ながら、三遊さんの背中をさすってあげている。
もしや私の先ほどの発言のせいかと思い、私は挙動不審に慌てた。それを志村さんが諌めてくれる。
数分後、三遊さんがまだ赤い目元のまま、頭を下げた。
「すいませんでした」
「いえ! あの、こちらこそすいませんでした」
「貴女が謝る必要はありませんよ。ただ嬉しくて」
「え、私何か失礼なこと言ってしまったんじゃないんですか……?」
三遊さんの涙の理由が、予想と正反対だったので私は恐る恐るそのことを言ってみる。
すると、三遊さんはくすくすと今度は笑みを零した。しかし、それは何処と無く寂しさが漂うものでもあり、私はまた失言をしてしまったのかと慌てる。
志村さんはそんな私の頭を一発軽く叩き私を大人しくさせると、真面目な表情でハルアレさんと向き合った。
「それで、どうして俺達をここに呼んだんだ?」
「単刀直入に言うのならば、志村さんに私達の娘を預けたいんです」
ハルアレさんの言った「娘」という単語に、自分の心臓がはねるのが分かった。同時に私の中にある予想が立てられる。
勘の鋭い志村さんも私と同じ考察に行き着いたのか、ちらりとこちらに視線をよこした。しかし、彼らの口からそれを聞かない限りはその予想が正しいのか分からない。自分で聞く勇気はなかったので、私は志村さんが尋ねてくれるのを待った。
しかし、それよりも先にハルアレさんが口を開いた。
「私達の娘とはその子――つまり、のことです」
予想していたこととはいえ、こうやって直接聞かされると多少なりとも動揺する。しかし、それも大したことはなかった。なぜなら、先ほど勝手に出てきたもう一人の自分が以前からそう言っていたと言わんばかりに胸を張っていたからだ。
ハルアレさんは私にまっすぐな視線を向け、三遊さんは再び涙で瞳を潤ませながら、私の反応を見ていた。しかし、私には大仰なリアクションなんて出来そうになかった。その事実がまるで当たり前かのようにすんなりと受け入れられたからだ。
「あー、えっと、こういう時ってどういう反応をすればいいんでしょうか?」
場の空気にはあっていないが、何も言わないよりかはいいかと思い、苦笑いしながらそう言ってみれば、隣から大きなため息が聞こえてきた。それにむっとはしたが、私の両親らしい二人が笑ったので志村さんに対する嫌がらせはやめておくことにする。
「ごめんなさいね、。ずっと一人で……」
「……いいですよ。きっと事情があってのことなんでしょう? それに私は怒りよりも喜びの気持ちのほうが強いんです。こうして、両親と出会えたのですし。まだ溝はあるかもしれませんけど、それはこれから埋めていけばいいんですよ。……お母さん、お父さん」
彼らに両親を指す言葉を使うのに、多少の勇気を要したが、言ってみればそれはあっさりと自分に馴染んだ。まるで昔からこういう風に呼んでいたかのようだ。
お母さんはそれに感極まったかのように鼻を一回すすったが、それよりも驚いたのはお父さんの反応だった。ぼろぼろと涙を零して、お母さんにしがみついている。なんというか、物凄く牧野さん臭がした。
「三遊……が……が私のことを……!」
「こら、お客様の前ではしたない!」
確かにこれは先ほどまでのお父さんのイメージをぶっ壊してくれた。落ち着いた大人の男性かと思えば、今はお母さんに叩かれて半ベソをかいている。
それがおかしくて思わず笑ってしまったほどだ。隣を見てみれば、志村さんも肩がわずかに震えていた。
お母さんはとうとうお父さんのことを放っておくことにしたのか、再び真面目な表情に戻ってこちらを向いた。
「話がそれましたね。それで、志村さんには私達に代わっての面倒を見てほしいんです」
「だったら、あんたらが一緒に暮らしたほうがいいんじゃないか?」
「いえ。だって、貴方方のいる世界で暮らしたほうがいいでしょう」
「どういうことだ?」
そして、私と志村さんは再び驚きで目を丸くすることになった。
お母さんによると、ここは神の住まう常世であり、私もまた元々はここに住まうもの――神だったらしい。もともとお父さんは羽生蛇村を守る神様で、しかし堕辰子の存在によりその座を退かなければいけなくなり、その際私を守るために違う次元の世界に送り込んだのだという。そのせいで、人間として生きる私に神としての資格はなく、常世に住むことが許されないのだ。ただし、人間としての生を終えたのなら、また常世に戻ってくることが出来るらしい。そして、今の私の肉体は死んだが、それは以前の世界のものであり、志村さん達の世界に新しく肉体を作ってもいいという。
自分が神様であったことに驚きつつも、納得できる部分もあった。なぜなら、そんな裏設定でもない限りあの能力はないだろうからだ。
難しい顔をしながら話を聞いていた志村さんは、尚も恐い表情のまま口を開いた。
「その話だと、こいつをここに住まわせることも出来るじゃねぇか」
「ええ。ですが、だって志村さん達の世界で過ごしたいでしょう? ほら、宮田さんとかいう彼。私は結構いい人だと思うわよ」
お母さんの思いもよらぬ発言に、私の顔が熱くなっていくのが分かる。
確かに私はお母さんの言うとおり、宮田さんともう一度会って、出来ることならもっと長い時間を共に過ごしてみたい。だが、それを他の人に言われると無性に恥ずかしくなってしまう。
志村さんは志村さんでなるほどとでも言うように、納得した表情をしていた。
「ふむ、それなら筋が通るな」
「でしょう?」
「……ふざけるな!」
お母さんと志村さんが私を生温かい視線で見つめてきて物凄く居心地が悪く腹も立ってきたが、それらはお父さんの叫び声によって吹き飛ばされてしまった。お父さんは今まで埋めていた顔をこちらに向けると、じりじりと詰め寄ってきた。誰だって半泣きの顔でこんなことをされたら、あとずさりたくもなるだろう。無論、私もだった。
「は誰にもやらん! ずっと、ここにいるんだ!」
「あらあら。のためにこうすると話し合ったじゃありませんか。それを今更なしにすると?」
「可愛いを何処の馬の骨ともしれん奴に渡すか!」
「仮にも神様が、嘘をついたと仰るのですね?」
お父さんからは見えないだろうが、私にははっきりと見えた。お母さんの頭から角が生えているような気がする。いや、そんなことはないのだが、あまりの気迫にそう見えてしまった。
お母さんはにっこりとそれは不気味な笑顔のままお父さんの襟を掴むと、そのまま後ろに勢いよく投げた。お父さんはふすまと破って、廊下に転がっている。どうやら気を失ってしまったようだ。益々お父さんと牧野さんが重なって見える。
「さぁ、ではそろそろお別れです。そこのふすまから出てお行きなさい」
お母さんはにっこりと今度は優しい笑みを浮かべて私達を見た。これで、後ろに壊れたふすまと転がっているお父さんがいなかったら、まるで聖母のように見えるかもしれない。
志村さんが立ち上がって、ふすまに手をかけた。私も立ち、それから最後にもう一度お母さんとお父さんを見る。
「、私達はいつでも貴女のことを見ていますからね。もちろん、戸籍とかそういった細々としたことは気にしなくていいわ。こちらで用意しておくから」
「だったら、美耶子ちゃんや八尾さんの分も……」
「もちろん、やっておいたわよ。……あぁ、それと元の世界に戻ったら教会に行ってみなさい」
「うん。……お母さん、またね!」
笑って手を振り、それから志村さんと共にふすまの向こうにある暗闇に足を踏み入れた。