「宮田先生、こんなところで寝ていると風邪引きますよ」
体をゆすぶられる感覚に覚醒しかけていた意識は、自分を起こそうとする人物の声を聞いて飛び起きた。
突然の宮田の行動にナース服を着た女性――恩田美奈は驚いたように目を丸くした。普段冷静な宮田がこうも動揺している様を見たことがなかったのだ。
「どうして……」
宮田は美奈を、そして自分のいる場所を見て、驚きで何も言えなくなる。彼らがいる場所は、懐かしき宮田医院の院長室であり、また窓から見える風景はあの異界のそれとは全く違っていた。
つまり、ここは気味の悪い異界ではなく元居た世界なのだ。しかも、どうやら時間も巻き戻っているらしい。その証拠に宮田が自らの手で殺したはずの美奈が目の前にいるのだから。それに机の上に置いてある時計の日付は異界に自分が取り込まれる前日のものだった。
もしや先ほどまで見ていた景色は夢だったのかとも思ったが、それにしてもずいぶんリアルなものだったので宮田はその考えを捨てる。また、その異界で出会った女性を夢と片付けたくなかったのも理由の一つだろう。
宮田は事実を知るために、院長室から飛び出た。後ろで美奈が何やら声をかけてきたが、そんなものに構っている暇も余裕もなかった。
もしも、元の世界に戻れたのだとしたらそれは喜ばしいことであった。しかし、異界と一緒にあの女性も消えてしまったというのなら、宮田はもう一度異界に戻りたいとすら思っていた。
宮田は自分の車に乗り込むと、荒々しい運転で病院を後にすると、教会に向かった。事情を知ってそうなのは八尾比沙子しか思いつかなかったからだ。
*
鳥の鳴く声で須田は目を覚ました。
そして、自分がどこにいるかを一瞬分からなくなる。そこは木々が生い茂る森で、須田はそこに仰向けに倒れていたのだ。彼の隣には愛車のマウンテンバイクが置いてあった。これは異界に取り込まれた際、無くしたはずであった。それがここにあるということは儀式が成功し、こうして無事に戻って来れたことに他ならない。
須田はそのことに安堵し、そして須田の目蓋にある光景が浮かんできた。
それは、須田があの異界で最後に見た光景――胸を刀で貫かれた女性の姿だった。どう前向きに考えても彼女は死んでしまっただろう。しかし、息を引き取ったところを見た訳ではない。自分をここに帰してくれたあの人がどうなったのか確かめるために、須田はマウンテンバイクにまたがった。行き先は、教会。あの求導女なら何か知っているかもしれないと思ったのだ。
*
「せんせー、起きてくださいよー」
ゆさゆさと容赦なく体を揺すられ、竹内は乗り物酔いにも似たそれを感じて目を覚ました。
重たい目蓋を開けたにも関わらず、安野は今だ自分を揺すってくる。それを手で制して、それから自分がいるこの場所に気づいて目を見張った。
そこは竹内の車の車内で異界にはなかったものだった。助手席に座る安野を見てみれば、彼女も珍しく不安げな眼差しでこちらを見てきた。
「夢……?」
「違いますよ! だって、私にも記憶ありますもん!」
咄嗟に考え付いたのは、あれは夢だったという説だった。しかし、それはあっさりと安野に否定される。
竹内は眉間に皺を寄せ何ごとか考え、それから車を発進させた。
「先生、どこ行くんですか?」
「教会だよ。事情を知ってそうな奴といえば、多分そこにいるだろう」
あの八尾比丘尼なら、何かを知っているだろう。そう思い、竹内は教会へと向かった。
また、あの少女のことも気にかかった。医院の廊下で話を聞いたとき、彼女は自らの命を犠牲にしてでも竹内らをこの世界に帰してみせると言っていた。そして、こうして戻ってこれたということは……。
竹内は嫌な想像を振り切るかのように、車のスピードを上げた。
*
頬に何か生暖かいものが当たった感触で、意識が覚醒した。
すでにほぼ条件反射のようなもので、美耶子は幻視をして何が触れたのか調べようとする。そして、視界に表れたのは当然のごとく自分であり、それよりも彼女を驚かせたのが視線の高さが思いの他低かったのだ。そして、その視界がとても懐かしいものでもあった。
「ケルブ……?」
戸惑いぎみに手を伸ばしてみれば、ふさふさとした柔らかな感触が伝わってきた。よく観察してみれば、あの獣独特の匂いもする。
どうしてケルブが生きているのだろうか。そのこと自体は嬉しいことなのだが、ケルブは確かにあの時自分をかばって死んでしまったのだ。
美耶子は不死なのだから、ケルブと天国で再会なんてことはないだろう。それに犬の視界なので遠くはよく見渡せないが、それでも自分が住まう神代家であることは分かった。
もしかしたら、あの異界からこうして戻ってこれたのだろうか。美耶子はそれを確かめるために教会に赴くことにした。八尾比沙子なら何か知っているだろう。須田がいないが、今はケルブが美耶子の目の代わりになってくれる。そこまで向かうことに不自由なことはなかった。
*
「おやおや、大丈夫かい?」
高遠はそんな声がかかって飛び起きた。
そして、目の前にいる人物を見て、再び驚きで飛び上がりそうになる。そこにいたのは羽生蛇村小学校折部分校校長の名越だった。異界で出会ったすでに人間ではなくなった名越ではなく、あの記憶の中の優しい笑みを浮かべた名越がそこにいた。
隣に寄り添うようにして眠っていた春海も起きて、それから小さく悲鳴を上げてしまった。高遠と違い、驚きや動揺をそのまま表に出してしまったのだ。それを見て、名越が不思議そうな顔をしつつも春海の頭を撫でる。
「怖い夢でも見たのかな?」
春海も名越が元の世界の名越になっているのに気づくと、驚いたように目を丸くした。そして、それから不安げにこちらを見る。
見たところ名越に敵意はないし、どうやらここは安全なようなので、高遠はひとまず状況を整理することにした。
「校長。今日って何日ですか?」
校長は不思議そうな顔をしつつも、日にちを答えてくれた。それは高遠たちが星を見る会を開くことになっていたあの日だった。通りで彼女達がいるところが学校だと納得する。
もしかしたら、先ほどのことは夢なのかもしれない。しかし、その割には現実感に溢れていた。そうは思ったが、それでも念には念を入れるに越したことはないだろう。あれが夢だとしたら正夢になるかもしれない。
「すいません、校長。今日はちょっと体調が悪くて……また別の日にしませんか?」
「それはいいけれど……体のほうは大丈夫かい?」
「ええ。……ごめんね、春海ちゃん」
そうして、高遠達は小学校を後にした。何処かに隠れていれば、再び異界に取り込まれずにすむかもしれないと思ったのだ。
一緒に異界を彷徨った人達――特にあの子のことが気になったが、今はそれよりも春海の安全を確保したかったのだ。
*
「知子、大丈夫か!」
激しく体を揺すられて、知子は起き上がった。
そこは見慣れた自分の家の居間であり、そして知子を心配そうに見つめる両親がそこにはいた。
「ここは……」
「戻って来れたんだ! ここはあの変な世界じゃない!」
知子の父である隆信が嬉しそうにそう言い、母の真由美は知子に抱きつき涙を零した。
隆信の言葉がにわかには信じがたく、知子はしばし呆然とあたりを見回した。窓から見える夕日に照らされた庭は記憶の中にあるそれとまったく違わず、それに雰囲気も陰鬱なものではなかったので、知子はようやく戻ってこれたのだと知った。
「知子、勝手に日記を見たりしてごめんなさい……」
「ううん、私こそ出て行ったりしてごめん……」
あの時の知子とは違い、家出をしようという気など知子には湧かなかった。
*
「ちょっと大丈夫っすかー?」
せっかく眠っていたところを無粋な声によって起こされたことにより、美浜は不機嫌そうな表情で目蓋を持ち上げる。
すると、彼女を取り囲むようにして覗き込むテレビ番組のスタッフがいた。その光景に一瞬驚き、それでもすぐに理解した。あの馬鹿な子が私を無事にこうして戻してくれたのだと。
「何ぼーっとしてるんですか?」
「うっさいわね! それより、今日は車中泊なんて嫌よ!」
「といっても、この村にホテルなんて……」
「だったら、別の場所に行けばいいでしょ!」
まだ、とやかく言っているスタッフを殴って黙らし、それから美浜たちテレビクルーは羽生蛇村から離れていった。
あの子が気になるが、また異変に巻き込まれるなんて美浜はごめんだったのだ。
*
「求導師様、起きてください」
ゆるやかに体を揺られて、むしろそれは眠りを誘いそうなほどに心地いいものだったが、牧野は重たい目蓋を開ける。
そこには母と慕ってすらいる八尾が、珍しく固い表情を浮かべてそこにいた。しかし、それよりも牧野は目覚めたこの場所が教会であるということに驚いていた。牧野の思い出せる最後の記憶は、思い出すだけで胸を引き裂かれそうになるほど悲しいものであったが、ここではなかった。八尾が牧野が何に戸惑っているのかをすぐに察し、その答えを教えるべく口を開いた。
「ここは、元の世界です。さんの儀式は成功したようです」
「そんな……」
元に戻ってこれたのは嬉しい。しかし、その代わりに失った代償は牧野にとってとても大きなものだった。
呆然として何も言わない牧野に、八尾はそっと薄汚れた布をそっと差し出した。牧野はその見覚えのある柄を見て、そしてこれを何処で見たのか思い出そうとする。
答えはすぐに出た。なぜなら、つい先ほどまでこの布を纏っていた人のことを思っていたのだから。
牧野は更にその布の上にあるぼろぼろの木彫りの仏像のようなものを手に取った。
「これは……?」
「どうやら、この村は私達がよく知っている村とは少し違うようなのです。その証拠に堕辰子の代わりに、その仏像が御神体となっているんです」
そして、八尾は牧野に自分が堕辰子を食べようとしたあの時のことを話した。
牧野はそれを黙って聞いていたが、唯一が食べられたと知ったときだけ息を呑んで、それでも何かに耐えるように拳を握り締めた。
「ですが、それでは、以前の世界においても呪いをかけられないのでは?」
「いえ、話には続きがあるんです」
八尾が言うには、あの後状況は一向によくならず空腹に耐え切れなくなった男性がとうとう堕辰子を食べてしまったのだという。もちろん、それは約束違反だと八尾と青年は止めたのだが、男性は聞く耳を持たず、そして罪を犯すなら一緒にと言わんばかりに八尾にも無理やり堕辰子の肉を食べさせたのだ。
「多分、この世界はあのあと何とか生き延びたのでしょう。ですから、呪いにかかっていないのだと思います」
こちらの世界のほうが断然あちらの世界よりもいいのは分かる。しかし、牧野はどうしてもやりきれなかった。
少なからず惹かれていた女性がそんな目にあったなんて知ってやるせない怒りの感情を持ったが、それをぶつける相手もいなく、ただ牧野はじっと耐えた。