体中が痛い。どこもかしこも鈍い痛みが走っていて、とてもじゃないが起き上がる気力など湧かなかった。気力も体力もなくただその場に寝そべっている。
何でこんなに暗いところにいるのだろうか。そもそも一体ここは何処で、何時なのか。何も分からない。まだ夢の世界に浸っている私だったが、それも段々と意識が浮上してきたことによって、全てを思い出す。


「美耶子ちゃん!」


怪我をしているであろうことを忘れて、慌てて体を起こす。瞬間、体中に走った痛みで私はうめき声を上げた。顔をしかめて痛みに耐えつつも私はゆっくりと立ち上がる。
辺りが暗くてよく見渡せないが、なんだか見覚えのある場所でもある。私はこの場所を思い出そうと必死になって、ようやく思い出した。ここは屍人ノ巣だ。あの違法建築のここは一体何階層目なのだろうか。それはわからないが、ここに屍人の巣が出来たということは儀式はまもなく行われるのだろうか。だったら、早く止めなくては。腕時計が壊れていないとすれば、儀式まではあと6時間もある。この傷ついた体でも何とか間に合うだろう。
私には美耶子ちゃん以外にも心配事があった。それは宮田さん達のことだった。きっとあの二人のことだろうから、怪我をしたりはしていないだろう。しかし、相手は猟銃を持っているのだ。万が一という可能性もある。また、志村さん達のことも気にかかっていた。いくら扉に頼んだとはいえ、所詮私の力なのだ。あまり当てにはできない。
私達は一応このような事態になった時の対策を考えていないわけではなかった。もしも、途中誰かが欠けたとして、その人を救えそうになかったらひとまずはそれぞれがこなさなければいけないことをする、ということだった。そして、その後一旦全員が集合し、今後のことを話し合うということだった。
……私がいくら心配したとて出来ることは何もない。それよりも、今は美耶子ちゃんを助けることにのみ、専念すべきだろう。私は頬を叩き気持ちを引き締めると歩き出した。






「あら、起きたのね」


不意に背後からそんな声が聞こえてきて、背筋が凍るのが分かった。
首がまるでさび付いているかのように上手く動かない。それでも、私はようやく振り向くことが出来た。
私の視線の先には、まるで聖母のような微笑を湛えた一人の女性がいた。その笑みは画面越しに見たのならば、温かいものと評されるのかもしれないが、今の私にとっては逆にそれが怖かった。


「八尾、さん……」

「やっぱり貴女は」


八尾さんは今だ微笑んだまま、私に近づいてくる。後ずさりして逃げ出したかったが体がいう事を聞かず、私は突っ立っていることしか出来なかった。
彼女は私のすぐ前に立つと、そっと私の頬に手を当てた。私は八尾さんが何を考えているのは分からず、ただ成り行きを見守る。


「……こんなところで立ち話もなんだから、場所を変えましょうか」


八尾さんは満足げに頷くとそう言って、踵を返して歩き出す。
彼女の真意がさっぱり分からない。それでも、美耶子ちゃんを助けるためには罠かもしれないが付いて行った方がいいのかもしれない。
私は咄嗟にそう考えて、八尾さんの背中を追う。
八尾さんはただ前のみを見据えて歩いていく。屍人に一度も遭遇しなかったのは彼女のお陰なのかもしれないが、それはつまり彼女がそっち側の人間だと認識させるものでもある。
私は出来ることなら八尾さんも救いたい。当然、彼女にも非はあるのだろうが、だからといって彼女を見捨てることはできない。
だから、私は八尾さんと争いたくはなかった。もしも、襲い掛かってくるのならば自己防衛のために戦わざるを得ない。しかし、そうはなってほしくない。
私の願いが通じたのか、八尾さんはあの儀式をする場所に着くまで不振な素振りを一つも見せなかった。
八尾さんが私をそこに連れて行くとは全く考えていなく、私は最初呆然と赤い水にその身を浸らせている美耶子ちゃんを見ていた。
私が美耶子ちゃんを救おうとしていることなど、八尾さんにはお見通しだろう。
当然、美耶子ちゃんを見つければ彼女を保護しようとするのは分かりきったことで、では何故八尾さんは私をここに連れてきたのだ?


「不思議だって顔、してるわね」

「……当然です。貴女の真意が、全く分かりません」

「美耶子ちゃんが心配なのは分かるわ。でも、その前に少しお話しましょう」


八尾さんは美耶子ちゃんが眠る水鏡のすぐ傍まで行ったので、私も付いて行って彼女の横に立った。
美耶子ちゃんは見たところ外傷は無い様で、それに安堵のため息をつく。そんな私を見て、八尾さんはくすくすと笑い声を漏らす。
それは儀式を執り行う八尾比沙子という人物には見えなかった。そのことに驚き、不振に思った。
八尾さんは一通り笑い終わると、顔つきを真面目なものに変えて口を開いた。


「貴女は何のために此処にいるの?」

「ただ、皆に幸せになってほしかっただけです」

「……変わらないわね」

「何がです?」


本当に八尾さんが何を考えているのか分からない。だから、私は隠すことなく思っていることを話す。お互いの腹の探りあいなんて、まっぴらごめんだった。
八尾さんは私の回答に満足げに微笑んだ。しかも、その口調がまるで私に以前あったことがあるようなもので、私は益々に意味が分からず質問を投げかけた。しかし、彼女はそれに答えることはなかった。
再び沈黙が訪れたので、私は美耶子ちゃんを見る。彼女は一向に目を覚ましそうな気配ではなかった。美耶子ちゃんの周りに百合の花はなく、時間的にもまだその場面ではなかったなと思い出す。
そういえば、百合は美耶子ちゃんが完全な実であることを示すものだったような気がする。しかし、既に実は須田君によって不完全なものとなっているのだ。つまり、儀式を行っても失敗しかない、というわけだ。
そこまで考えたところで、これを八尾さんに話せば儀式を行わないで済むのではないかと思った。私は早速八尾さんに話しかけた。


「八尾さん、儀式は行うんですか?」

「当然でしょう。といっても、貴女はそれを望んでいないようだけれど」

「ですが、実は不完全なものですから、儀式は失敗してしまいますよ」

「どういうこと?」


特に見るべきところもないので美耶子ちゃんを見ながら、私は美耶子ちゃんと須田君のこれまでのいきさつを話した。
八尾さんはそれをただ黙って聞いている。その表情は無機質なもので、しかし若干の疲れをうかがうことも出来た。
全てを話し終わると、八尾さんは徐に手を額に当てて項垂れた。そんな八尾さんの気持ちが分からないでもない。
気の遠くなるような時間を儀式に費やし、そしてもしかしたらこれで最期かもしれないと期待した儀式は行う前から失敗が見えている。落胆をしないわけがなかった。
しかし、彼女は自分を生贄として差し出す気はさらさらないのだ。その点は戴けない。ある意味、人間の欲に忠実なのかもしれないが、だからといって自分の子孫を差し出すなんて、それを許せない気持ちもあるのは確かだ。


「……そう。じゃあ、私はまたどれくらいの間、待てばいいのかしら」

「それは分かりません。ですが、貴女だって気づいているでしょう。手っ取り早く、解放される方法を」

「私自身が生贄となるってわけね」

「はい。貴女は神を食すことで穢れました。そして、きっと我が子生贄として差し出したことでその罪はより一層重くなる」

「じゃあ、どうしろっていうのよ!」


突然、八尾さんが声を張り上げた。私は言いすぎてしまったのかとすかさず謝ったが八尾さんには届いていないようで、彼女は頭を抱えると何やらぶつぶつと呟きだす。
それを見て、本当に言い過ぎてしまったのだと私は悟った。彼女をただの悪役としか見ておらず、彼女の苦悩を考えることをしなかった。表面を考えただけで、それが八尾さんの全てだと思っていた私を恥じる。
私は自分がそうされて嬉しかったように、そっと八尾さんの傍に立って彼女の肩を抱く。
しかし、八尾さんはそれを乱暴に私の手を払うことによって拒否した。八尾さんは不意に顔を上げると、天井辺りを見る。その目は虚ろで、何も映してはいなかった。


「もう、待つのは嫌……」


その台詞を聞いた途端、私の背中を嫌な予感が駆け上っていく。これは、まさかあのゲーム内の台詞ではないだろうか。つまり、このあと八尾さんは自分を捧げてしまう?
先ほどの軽率な私を殴りたくなったがそんなことを出来るわけもなく、私はそれよりも八尾さんを止めるために彼女に体当たりを決める。
もっと平和的な解決方法もあっただろうに、私の体は咄嗟にそんな行動をとっていた。
八尾さんはあっさりとよろめき倒れこんだ。そんな彼女に馬乗りになる。こうすれば、彼女が再び祈りを捧げようとしても、それを阻止することが出来るだろう。


「離して!」

「できません。それと、先ほどは軽率な発言をして申し訳ありませんでした。別に貴女に生贄となれと言った訳じゃないんです。私は、先ほど皆を幸せにしたいと言いました。その皆の中に、当然八尾さんも入っているんです。私は貴女にも幸せになってほしい。全ての人に幸せになってほしい」

「まるで菩薩のような人ね。そんなことが出来ると思っているの?」

「思っていません! そんなこと出来るわけないじゃないですか!」


それに力を込めて返した私の答えに、皮肉そうに口元を歪めていた八尾さんの目が丸くなる。酷く人間らしいその表情に、私は笑みを零した。


「私の言うことは全て理想論です。ですが、理想でもそう言うことによって叶うこともあるんです。だから、私は到底叶いそうにもないことをあえて口に出して願うんです。八尾さん、私が貴女を必ず救って見せます! 約束です! だから、私の」

さん!」


私の言葉をさえぎって、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
おそるおそるその方向を振り向いてみると、扉を開け放った状態で固まって動かない人たちがいた。それは、白衣を乱して呆然と立つ宮田さんと肩で息を切らしつつも曖昧な苦笑を浮かべている須田君、宮田さんと全く同じ表情で固まっている牧野さんだった。
彼らと同じく私も固まってしまう。なぜなら、今の私と八尾さんは明らかに怪しいからだ。断じて私にそういう趣味はないのに、このままだと勘違いされかねなかった。