「おい! お前、お父さんとお母さんいないんだってな!」
そんな言葉を聞いておぼろげな意識が浮上していく。
私は瞑っていた目蓋をゆるゆると持ち上げる。先ほどの言葉の持ち主を知りたかったというのもあるが、美耶子ちゃんの安否が気になった。
そうして、私の視界に飛び込んできたのは、忘れもしないあの少年だった。その少年の後ろには他にもたくさんの子供達がいて、皆何が面白いのかニヤニヤと顔を歪めて私を見ていた。彼らが見覚えのある教室で私を取り囲んでいた。
どうして彼らがこんなところにいるのだろうか。この世界にはいないはずの彼らが何故。それに、どうしてこんなにも成長していないのだろうか。彼らと別れてからもう何年も経っている。それだけの時間が流れたのだから、私は随分と大きくなった。当然、彼らも大きくなっているのだ。そして、ようやく違和感を感じた。子供に戻っている彼らと私の目線は同じなのだ。つまり、私も小さくなっている……?
「ちゃんといるもん……」
状況が全くつかめない私の心を置いて、体は勝手に少年に言葉を返す。私は自分が放った言葉に驚き、背筋が凍っていくのがわかった。
これは夢なのだろうか。だとしたら、何でこんな夢を。
この時のことを私は忘れこもうとしていた。思い出さないように必死になって、心の奥底に封じ込めたのだ。それが出来るようになるまで、何年もかかった。それでも、今だ時々夢で見てしまうのだ。
「そりゃ、いるかもしれないけどさ。でも、お前のこと捨てたんだよな!」
少年はあの時と全く変わらないことを言った。それを聞いて、心が悲しみに支配されていくのがわかる。
この先、何が起こるか知っているだけに、私はそれを押さえ込もうとする。しかし、私の意識とは裏腹に体は別の誰かに乗っ取られたかのように言うことを聞かない。むしろ、この感じだとあの時の幼い私の精神に私が無理やり割り込んだように思える。その証拠にあのときの私の表に出さない泣き声が聞こえてくる。
少年達はげらげらと下卑た笑い声を立て始める。そして、思い思いに私に暴言を投げつけてくる。
私は両手を耳にきつく押し当てしゃがみ、唇を噛み締めながら首を横に振る。何も聞きたくない。何も言わないで欲しい。
それでも、少年は私をいたぶるのをやめる気はないらしく、こちらに近づくのが分かった。
二人の私が意味は違えど、少年が接近してくるのを拒む。幼い私はこれ以上自分が傷つくのを避けるため、今の私はこれから起こることを回避するためにだった。
しかし、少年はそんな私達の思いを汲み取ったりはせず、口をゆっくりと開いていく。
「おじさんとおばさんもお前のこと嫌いだって言ってたしな。ほんと、お前って」
続く言葉は私には聞こえなかった。無意識のうちに否定してしまったのだろうか。だったら、あのときの自分にも聞こえなければよかった。そう願ってももう遅かった。
幼き日の私にはしっかりと聞こえたのだろう。少年に対する憎しみが心に急速に広がっていくのがわかる。
もうどうしようもなかった。もう一人の私が悲しみの雄たけびを上げて、そして立ち上がる。前に立つあの少年を睨みつけると、彼は今更ことの大きさに気づいたのか、気おされたように一歩下がった。
「うるさい黙れお前に何が分かるお前のその低脳で無知な頭で私の苦しみが分かるというのかお前は害だ屑だお前に言葉を発する権利はないよお前が吐き出す言葉は穢れているに違いないさ言いや言葉だけじゃないお前自身も穢れている穢れを持ち込む奴なんか必要ない」
言葉が勝手に口から零れていく。その言葉の羅列が少年の首に巻きついていくのが見えたような気がした。
そして、それらが彼の首に何重にも巻きついたとき、彼は急に首の辺りを押さえながら悶え苦しみだした。自分でも私のものとは思えないような声を呆然と聞いていた少年の取り巻きは、その彼の異常な状態に更に驚く。
誰も何も言わず動かない。ただ、私の憎しみに満ちた言葉が彼の体に巻きついていくだけだった。
突然、床に転がって苦しんでいた少年が痛々しい叫び声をあげ、白目を剥いてピクリとも動かなくなった。
それを聞いたとたん、私の中で急速に憎しみの気持ちが消えていくのがわかった。私は口に手を当てて、自分が何をしたのかを思い知る。
そして、私が言葉を発するのをやめた途端、場は騒然となった。
大声を上げて泣き出すものや、腰が抜けたのかその場にしゃがみこむ者が現れ始める。しかし、少年に駆け寄って助けを起こそうとするものは一人もいなかった。
当然、そんな混乱した状況になれば先生方が駆けつける。
私はただ呆然とその様子を見ていた。
真っ先にやってきた女性は倒れている少年を見ると、慌ててその子に駆け寄った。そして、何事かを話しかけている。他の先生たちはパニックになっている生徒達をなだめていた。
そんな生徒の一人が、唐突に私を指差した。今だ涙にぬれている声で、叫ぶ。
「あいつがやったんだ! この化け物!」
その言葉に私は大きく息を吸い込んだ。
その場にいた全員がまるで異形のものを見るような目つきで私を見ている。怯えや恐れを含んだ眼差しが私に突き刺さる。
私はそれを否定するようにまた首を左右に振る。そして、そんな私の目にある光景が飛び込む。それは私の呪いの言葉に体中を覆われている少年の姿だった。
この少年を元に戻したのならば、皆は私をそんな目線で見なくなるのだろうか。そう考えて、彼に近づいた。
彼を介抱していた教師は、そんな私を正に化け物を見るような目つきをしながら少年から遠ざける。
その事実に悲しみ打ちひしがれたが、別に少年に近づかなくてもあの言葉達から解放することができるだろうと私は先ほどとは逆の言葉を口にする。
「私が悪かった。誰だって必要とされない人間なんかいないもの」
吐き出された言葉は少年を取り巻く憎悪の言葉達を消し去っていく。少年はすぐに意識を取り戻した。
それが嬉しくて、私の顔に笑みが浮かぶのが分かった。しかし、それもすぐに固まってしまう。
周りの視線が、完全に恐怖によるものになっていた。
そして、誰なのか分からないが、ある言葉が聞こえてくる。
「化け物……」
そこで私の意識は再びブラックアウトした。