ちゃん!」


診察室の扉を開けるなり、依子さんに抱きつかれて、もとい飛び掛られて、牧野さんもろとも後ろから転んでしまった。
そうとうな衝撃が走ることを予想して固く目をつぶったのだが、予想に反してそれほどの衝撃は走らなかった。
それもそのはず、牧野さんが私の下敷きになっていたのだ。


「わわ! すいません! 大丈夫ですか!? ……痛っ!」


慌てて牧野さんの上から退いたが、その時に足を大きく動かして傷口を広げたような気がした。
牧野さんはと言うと、後頭部をしたたかに打ったのか、頭をさすりながら上半身を起こした。
そんな私たちを見て、依子さんは両手を合わせて顔の前に持っていって謝った。


「ごめんごめん!」

「おい、安野。お前はもう少し静かになれ」

「何ですか、先生! 友達が無事に帰ってきてくれたんですよ! 嬉しくないはずがありません!」

「……友達」


依子さんの言葉を聞いて、私の両目がわずかに見開かれる。
そんな私に高遠さんが笑いかけているのが見えた。その顔を見て、なんだか悔しくなってそっぽを向く。


「何してるんですか。さっさとこっちに来てください」


和気藹々とした雰囲気に水を差すように、宮田さんの冷たい言葉が響いた。
私はまた思わず謝ってから、宮田さんが座る椅子の前にある椅子に座った。
どうしたことかと、心配気な顔をして知子ちゃんが近づいてきた。


さん……怪我したんですか?」

「ちょっと、ね」


宮田さんがカーディガンを剥いでいくのを見る。
これを取ったら傷口が露になるので、ある程度の覚悟を持ってそこを見る。


「……あれ?」


傷口は、どう贔屓目に見ても大部分が塞がっていた。
もっとざっくりと切れていたはずなのに、傷口が4分の1ぐらいまでになっている。
まだ、最初から小さかったのを見間違えた、というのならわかる。しかし、きちんと傷跡は残っているのだ。


「この傷……いつ頃負ったんですか」

「大体、一時間ぐらい前でしょうか?」


宮田さんは眉間に皺を寄せると、傷口を見つめる。
恐るべきスピードで直っている傷を不思議に思っているのだろう。私だって、不思議だ。
原因として思い当たることと言ったら、私が言ったあの言葉なのだ。
もし、あの言葉通りになっているのだとしたら、今だ右腕の傷は癒えていないだろう。
そう思って、右腕に縛り付けられたハンカチを取る。
そこからはいまだに血が滴っていた。
それを目ざとく見つけた宮田さんは、この傷を負った時間帯を聞いてくる。私はそれに足の傷よりも前に怪我したのだと答えた。
それを聞いて、宮田さんの眉間の皺は更に増える。


「……とりあえず、消毒しましょう。沁みますが、我慢してくださいね」


宮田さんはそう言って、処置をさっさとこなす。
しかし、その間も眉間の皺は相変わらずの状態で、まだ考えていることがわかった。
私はというと、傷が異常な早さで直ったことや傷口が沁みるだとかそんなことよりも、この傷口からどれくらいの赤い水が入り込んだのかということを考えていた。
下手をすればもう手遅れかもしれないが、だとしたらきっと兆候が表れるはずだ。
そうなったら、何も言わずに出て行こう。そう心に決めて、私は治療が終わるのを待った。


「ありがとうございました」


手当てをしてくれた宮田さんにそう言って軽く頭を下げ、私は立ち上がる。恐るべきことに足の痛みは大分引いていた。
疲れきっている体を癒すべく、どこかで休もうかと思って、辺りを見回す。
依子さんと竹内さんは今だ言い争いを続けているし、春海ちゃんはベッドに座る高遠さんに寄りかかって眠っている。知子ちゃんは高遠先生達とは別のベッドに寄りかかって眠たそうに船を漕いでいる。宮田さんと牧野さん、それと理沙さんはそれぞれ物思いに耽っているようだった。
私は壁に寄りかかっている志村さんの隣に行って、地べたに座り込んだ。


「きちんとしたところで休憩しないと、疲れは取れないぞ?」

「……小さい子と女性を優先して使わせなければいけないじゃないですか」

「お前は女で、俺からすればまだまだ子供だ」


前を向いたまま、でも心配そうな声色に胸が温かくなっていくのを感じる。
志村さんの心遣いが嬉しくて、思わず涙がこぼれそうだった。
しかし、再会を喜び合うよりも、まだまだ考えなければならないことがある。
それは美浜さんのことだ。彼女は大体4時間後ぐらいにはもう屍人化してしまう。
ここから蛭ノ塚までは2時間もかからないだろう。ということは、大体2時間ぐらいは休むことが出来るのだ。


「志村さん、今から2時間ぐらいしたら起こしてくれませんか?」

「もっと休んでおけ」

「……蛭ノ塚まで、行かなきゃいけませんから」


私の言葉を聞いて、志村さんはこちらを見下ろしてきた。
今までも2回、こういう風なことを言ってはきたが、ここまで恐ろしい表情で睨まれたのは初めてだった。
志村さんは、平素よりも数段低い声で話しかけてくる。


「やめろ」

「嫌です。だって、助けにいかなくちゃ」

「怪我をしているんだぞ」

「……足の怪我は大分良くなりましたから、大丈夫です」


言い切りの形で責められる。語尾は上がってなんかいない。
想像していたよりも怖い殺気に、私の手が汗ばむのがわかった。


「駄目だ」

「志村さんに私を止める権利なんてないでしょう。……起こしてくださらないのならいいです。体を休めたら、すぐに発ちますので」


そう言って、立ち上がる。
椅子にでも座って30分ほど休めば、それなりに体力は回復するだろう。そうしたら、すぐに美浜さんのところに向かおう。そう思った。
しかし、腕を捕まれて、私はそれ以上前には進めなくなる。
私は引きとめた人物――志村さんを睨みつけるようにして振り返る。
彼が私を心配してくれているのはわかるが、私は美浜さんを助けたいのだ。
私たちの険悪なムードに気がついたのか、既に眠ってしまっている春海ちゃんと知子ちゃん以外の皆がこちらを見てくる。


「どうしたの?」

「こいつの相変わらずの無鉄砲ぶりに呆れてたんだよ」

「志村さんの相変わらずの分からず屋ぶりに苛立ってたんです」


依子さんの問いかけに、志村さんがああ答えるものだから、私は皮肉を込めてそう返す。
そんな私たちを見て、依子さんは引きつったような苦笑いを浮かべた。


「……またちゃんがとんでもない事を言ったの?」

「とんでもないことなんかじゃ」

「ああ。蛭ノ塚まで戻るとさ」


私の発言をさえぎって、志村さんがそう言うので、睨みつける目を心持ち更に険しくする。
依子さんは驚いたように息を吸い込むと、私の顔を彼女の手で挟んで強制的に依子さんの方へ向ける。


「まーたそんな無謀なことを!」

「だって、行かなくちゃいけないもの!」


今度は依子さんとにらみ合う。無言の攻防は竹内さんが間に入るまで、終わることはなかった。


「安野の言うとおりだ。君は見たところ疲れきっているじゃないか。助けに行った君が死んだんじゃ意味が無い」

「じゃあ、見捨てろって言うんですか?」

「……俺が行く。君は何処にいるのか教えてくれればいい」

「そんなことしたら、危ないじゃないですか」

「それを言っちゃったら、ちゃんだって危険な目にあうってことじゃない!」


話に参加してくるのは2人だけとは言え、志村さんと高遠さんは視線で私に何かを訴えかけていた。
1対4はどうあがいても不利だった。
私は駄々をこねる子供のように、「それでも行く」と言い続ける。周りも折れてくれることはなく、しつこく私を止めようとしている。