ここは白かった。薬品の匂いが染み付いたカーテンや、ドアに取り付けられた格子まで不自然なほどに白い。時折聞こえる壁の向こうの唸り声は、静寂の中によく響いた。
 ここは居心地が悪い。そう思いながら、何年もここに勤めていた。喧嘩をして半ば家出同然に東京に出てきて以来、両親とは連絡を取っていない。友人も少なく、頼れる人物など思い当たらなかった。このご時勢だ。学もなく、資格もない私に新しい就職先はそう簡単には見つからないだろう。バイトで食い扶持を稼ぐ生活も将来を考えればとてもではないが出来ないし、路頭に迷うだなんて絶対にしたくなくて、不平不満をだらだらと零しながらも、この職場にしがみ続けていた。
 ここは都内の病院である。都内といっても23区内ではなく、外れに位置していた。窓からの眺めは緑が多く、いかにも療養には適している場所のように思えた。それが実際には意味のあることにはとてもではないが思えなかった。
 ここには、精神疾患を持つ患者が収容されている。

 長く伸びた廊下には、金属の鈍い輝きを放つ扉が等間隔についている。窓から差し込む温かな太陽の光も、鉄格子越しでは和やかなものには感じられなかった。患者のうめき声や、何かを叩きつけるような鈍い音が響く廊下を足早に歩く。廊下の一番奥右手側、220号室。本来なら患者の様子を伺えるように、扉にも小さな鉄格子が設けられているがここにはそれがなかった。ネームプレートにも何も書かれていない。ここに、私が担当になった患者がいるという。そう言われたのは、つい一週間前のことだった。他の患者や院内の雑事には関らなくていいという条件に加えて、賃金も上がるといわれた。真面目な勤務態度が高じて選ばれたらしいが、とてもそうとは思えなかった。しかし、断ったら退職させられるようなことを仄めかされては、首を縦に振るしかなかった。不安だけが、大きく膨れ上がっていた。
 以前から、この部屋の噂をちらほらと聞くことはあったし、実際私も気になっていた。いわく、44人もの人間を惨殺した気狂いが収容されているとか、身寄りがないことをいいことに患者で人体実験をしているとか、はたまた院長の愛人を囲っているだとかいう変な噂まで聞いたことがあった。事実は分からない。しかし、多分、これから分かるのだろう。
 意を決して、予め渡されていた鍵を鍵穴に挿す。がちゃりという金属の重々しい音とは対照的に鍵はあっさりと回った。
 その先に続いていたのは、下り階段であった。明かりのスイッチが右手側の壁に取り付けられている。それを押してから、私は階段を一段降りる。ばたんと大きな音を立てて、背後でドアが閉まる。それきり、何も聞こえなくなった。無機質な光に照らされて、埃っぽい下り階段が続いている。そろそろと段差を降りる足音だけが、コンクリートに反響して不気味だった。
 階段は長く続いていた。途中何度か踊り場があったがそこには何もなく、ただ厚い埃だけが積もっていた。何度か角を曲がりそうしてようやく平坦な廊下が現れた。伸びた廊下の先には、これまた金属製のドアが取り付けられていた。はやく何かしらの変化が欲しくて、足早にそこに向かう。ひやりと冷たいノブを握って、勢いで扉を開いた。ドアが床を引っかき、耳障りな甲高い音を立てた。
 そこは、患者用の部屋を一回り大きくしたような正方形の部屋だった。左手側の壁の中央には、入り口と同じドアが取り付けてある。一方、正面左よりの壁に付けられたドアは、今まで見たこともないほどにごてごてとしたドアだった。錠前は大きな南京錠といかにも重そうな閂である。そのどちらも、私が持っている鍵では開けられそうにはない。家具は少なく、部屋は質素であった右手側に灰色のスチール製の棚があり、たくさんのバインダーがびっしりと収納されていた。棚に近い正面の壁際にはこれまたスチール製の机が一つぽつんと置かれていた。
 正面の壁には広がる大きな嵌め殺しのガラス窓があった。その向こうにあるものが、何よりも私の関心を惹いた。ふらふらとそこへ近寄る。汚れて曇ったガラスに手をつき、その先の光景をまじまじと見つめた。
 向こうの部屋も、こちらと同じくらいの広さであった。真っ白な壁紙とタイルが張られた室内を天井の中心に据えられた蛍光灯が照らしている。その真下に患者用の簡素なベッドが置かれていた。皺一つない純白のシーツに傍目から見てもふわふわとさわり心地の良さそうな掛け布団、枕もふんわりとして寝心地が良さそうである。そして、そこに一人の少女が横たわっていた。艶やかな漆黒の黒髪を横に流し、少女はすやすやと眠っているようであった。長い睫に縁取られた目は閉じられ、ぴくりともしない。珠のような白い肌は、頬の辺りが薔薇色に染まっていたので、彼女がまだ生きていることを窺い知れた。ため息が零れるような美少女が、そこにはいた。
 時間が経つのも忘れて、食い入るように彼女を見つめ続けた。彼女の細い胸が上下にゆるゆると動いている。動くものといったらそれだけなのだが、それでも無性に私を惹きつけてやまない何かが、確かにそこにはあった。
 どれだけそうしていたのか、ガラスに押し付けた手がすっかりと冷え切り、ようやく私は彼女から視線を外した。すっかり脱力してしまい、古ぼけた椅子に座る。椅子は軋んで嫌な音を立て、背もたれはぐらぐらとして今にも取れそうだった。
 机の上には、1冊のファイルと1冊のノートが置かれていた。近くにあった大学ノートの方を手に取って、何気なく捲る。表紙中央にやや右上がりの角ばった字で題名が書かれていた。


「病床日誌、ねぇ」


 そこにはその日その日の患者の様子が細かな字で記されていた。ぱらぱらと飛ばし飛ばし読んでみるが、特に目を引く記述はなかった。これを読むところ、どうやら彼女はずっと目を覚まさず、全く手のかからない患者のようだった。日誌は、1ヶ月ほど前からぱたりと途切れている。その先の数ページは破り取られていた。瞬間、背筋が粟立つ。奇妙なそのノートを気にしないように、ばたんと勢い良くそれを閉じ、机の隅に放り投げた。
 気分を変えようと、青いファイルのほうを引き寄せた。薄汚れたそれは、何よりもこの部屋の年月を感じさせた。
 1ページ目には、あの少女の顔写真が載っていた。顔のパーツの一つ一つが寸分の狂いもなく、最も美しいと感じさせる位置にある。細く繊細そうな黒髪は、さらさらとした直毛で癖一つない。髪と同じく濡れ烏の羽のように黒い目だけが、硝子玉を嵌めたのように空虚であった。
 顔写真の横に、書かれた文字を読み上げる。


「――


 それが寂れた病院の地下室でひっそりと眠り続ける少女の名前であった。