既に日はとっぷりと暮れていた。空を仰ぎ見れば、木の枝の隙間から瞬く星たちが見えた。夜は妖怪の天下である。それなのに、こうして森の中を走っている俺のなんて愚かなことか。ついつい友達の家に長居しすぎて、このざまである。自分の住んでいる家までは、まだ一里ほどある。無事にそこまでたどり着ければいいのだが。
その時、右手前の草がざわりと揺れた。道以外は、俺の腰の高さまで雑草が生えている。つまり、そこに何かが隠れるのは容易な訳である。


「ひぃ!」


思わず腰が抜けそうになって、足を止める。そして、草陰からは――一匹の兎が出てきた。そのことにほっと一安心する。いや、別に怖かったわけじゃない。ほら、あれだ。今まで走っていたから、その疲れが腰にきたんだ。悲鳴なんてそんなものも上げた覚えはない。たぶん、何かの動物の鳴き声だ。
ばくばくと尋常ではないほどに活動している心臓を宥めつつ、俺はまた走り出す。いい加減、早く帰って寝たい。薄くて硬い布団が恋しい。怖いから早く森を抜けたい訳じゃなくて、この疲れた体を癒してあげたいのだ。ただでさえ、病気の友人の看病に付きっ切りだったのだから、さっさと寝たい。
嫌な妄想に囚われないように、他愛の無いことを考える。その時、左側の茂みが揺れた。たぶん、また兎か何かだろう。そう思った俺の予想は見事に裏切られた。


「うらめしやー!」

傘のようなものを持った、小柄な人影が躍り出てきた。月の光で、露草色の髪の毛が光っている。そして、両手を胸の前でだらんと下げて、舌を可愛らしく覗かせている。まさか、女の子が出てくるとは思っていなかっただけに、またまた固まってしまう。


「うらめしやー!」


女の子は再び同じ言葉を言って、俺の反応を伺うように顔を覗き込んでくる。彼女は俺に一体何を期待しているんだろうか。というか、そもそもこんな夜更けに女の子が一人でうろついているとは無用心にもほどがある。何か事情があるのかもしれないが、だとしても森を彷徨うのはあまりにも危険だ。この子の両親はそんなことも教えなかったのだろうか。向けどころのない苛立ちがふつふつと湧き上がってくる。だから、つい女の子の頭を拳で軽く小突いた。


「こら! 女の子がこんな夜更けにうろつくなんて危険だろ!」

「へ?」


女の子は、叩かれた頭に両手を当てて、ぽかんと情けない顔をした。どうして、こうも危機感というものがないのだろうか。他人とはいえ見過ごせないのは俺の長所なのか、はたまたま短所なのか。
いつまでも、ここにいたのではそれこそ妖怪と遭遇してしまうかもしれない。かといって、少女を見捨てることは俺の良心が許さなかったので、彼女の手を取ると歩き出した。


「え? あの?」


後ろから、戸惑ったような声が聞こえてくる。その気持ちも十分に分かるが、立ち話をするよりも歩きながらのほうがいいだろう。流石に走る訳にもいかないので、少女がついてこれる程度に小走りしながら、彼女のほうを見た。


「君、どこの里の子?」

「あ、私は……えっと……」


女の子は途端に言葉を濁らせる。どうやら、言いたくはないらしい。家出か何かだろうか。だとしたら、無理に問いただすのも悪いような気もする。でも、きっとこの子の親御さんも心配しているだろう。いや、待て。もしかしたら孤児という可能性もあるかもしれない。勘ぐりすぎているような気もするが、結局は彼女については何も尋ねなかった。


「とりあえず、森は危険だから、俺の住んでる里まで行くぞ?」

「う、うん、分かった」


女の子が頷いたので、俺は少しだけ足を速めて歩き出した。そうして歩くこと、四半刻もかからなかっただろう。ようやく里に着くことが出来た。しかし、これから一体どうしようか。まさか、俺の家にまで連れ込む訳には行かないだろう。一応は、俺は男で彼女は女なのだ。寺子屋を営んでいる慧音にでも頼もうか。彼女は妖怪とはいえ、随分人間に友好的だ。それに、少なからずとも親交があるから、彼女ならば快諾してくれるだろう。
少女にそう言おうと、後ろに着いてきてくれている彼女のほうを振り向いた。そして、今更ながら気がついた。少女の月光に揺れる瞳は、左目が赤色で右目が水色なのだ。普通の人間がこのような容姿をしているであろうか。髪の色は幾らだって染めることが出来る。しかし、目の色は変えることは出来ない。それに、彼女が持つ傘は、紫色のなんとも気味の悪い配色である。しかも、一つ目の柄と大きな赤い舌がだらりとぶら下がっている。これでは、まるで――


「妖怪……?」

「怖くなかったよね……」


少女は、しょんぼりと肩を落として俯いている。とてもではないが、妖怪には見えない。とはいっても、幻想郷の妖怪は古い書物に書かれているようなおどろおどろしいものではないから、ある意味では彼女も例に漏れていないのかもしれない。それにしても、俺は一体なんてことをしてしまったのだろうか。あろうことか、彼女の頭を殴ってしまったのだ。これは報復として、殺されてしまっても可笑しくない。背筋が寒くなるのを感じながら、彼女の様子を伺い、俺は別の意味で背中に嫌な汗が伝うのを感じた。
少女は肩を揺らして、嗚咽を漏らしていた。一粒の雫が彼女の頬を滑って地面へと落ちていく。人間であれ妖怪であれ、誰かを泣かすというのは心臓に悪いことであった。何か慰めの言葉をかければいいのかもしれないが、それが彼女の琴線に触れて殺されるような事態は避けたかった。でも、さっさと逃げ出すようなことも出来なかった。とことん損な性分ではあると思う。俺は意を決して、彼女に声をかけることにした。しかし、その前に彼女が言葉を漏らす。


「私、妖怪の才能ないのかなぁ……」

「え?」

「だって、誰も怖がってくれないんだもの。もう、妖怪辞めて、ただの傘に戻ったほうがいいのかな……」


そもそも妖怪は辞められるものなのか尋ねたかったが、それをするのはあまりに空気の読めていない行為だろう。だから、その疑問を飲み込んで、少女に話しかけた。


「あのさ、そんな悲観することないって! 結構怖かったぜ?」

「その割には大して驚いてくれなかったじゃない」

「いや、なんていうか、使い古されたような驚かし方だったし……あ、わりぃ」


結果的に、全く慰めになっていなかった。慌てて謝ってももう遅いようで、少女はいよいよ泣き声をあげだしてしまう。これは、どうすればいいのか。必死で頭を悩ませて、そこで一つの解決策を導き出した。要は人を驚かせる術を考えればいいのだろう。その程度で、人が死ぬはずもないからこのくらいの手助けはしてもいいだろう。では、具体的にどうすればいいのか考えて、思いついたことを提案してみることにした。


「君の場合、見た目が問題なんじゃないか?」

「見た目……?」

「やっぱり怖いっていうなら、白襦袢に長い黒髪の女性が鉄板だろ」


それで、井戸から這い上がってくるのだ。想像しただけで恐ろしい。少女の場合、あまりにも可愛らしい容姿のせいで恐怖が半減してしまっている。たしかに傘は不気味な見た目であるが、それを差し引いても彼女はどちらかといえば可愛いのだ。


「あとは、相手の気が緩んだときに驚かす! これも結構いいと思うぜ?」

「気が緩んだときって?」

「出るぞ出るぞー、って相手が身構えているときに驚かしたって、たいしたことないだろう? だから、例えば森の中では物音とかで驚かして、相手が森を抜けて安心したときに、背後からそっと肩を叩く。これは結構怖いな……」


自分で言って、背筋が寒くなってきた。少女はふむふむと頷きながら、俺の話を熱心に聴いてくれる。だから、俺もついつい調子に乗って、色々と話をした。自分が怖いと思う状況を話せばいいだけだ。至って楽である。ただし、この方法で俺が驚かされたら洒落にならないが。


「そっか! 色々と話を聞かせてもらってありがとね!」

「いや、いいよ。気にするな。ただし、その方法で俺は驚かすなよ」


一応、釘を刺しておく。少女は晴れやかに笑って、一つ頷いた。そして、ぺこりと俺に向かって頭を下げた。


「本当にありがとう! この恩は忘れないよ!」

「ま、傘に戻りたくなったら俺のところに来いよ。丁度、傘壊れて困ってたんだ」


冗談交じりにそう言うと、少女は更に笑みを深めた。再度、頭を下げて、そうして少女は手を振りながら森のほうへと帰っていった。ようやく、愛しの布団と再開出来るというのに、何処か軽い物悲しさを覚えつつ、俺も手を振り返した。


不遇な忘れ傘と臆病な人間と